4杯目
先代が亡くなったのは、つい一月前のことだ。
いきなりと言えばいきなりのことだったけれど、それでも少しずつ、もしかしたらと思うところがあった。
老人は、いつもアゼリアとは少しばかりの距離をとって接していた。何を話せばいいのかもわからなくて、ただ黙々と紅茶を飲んで、ときおり満月を見上げた。互いに口下手だったのだ。
ルピナスは、「あんたたち、ちょっとくらい話してみたら?」と呆れ混じりに頬杖をついていた。
アゼリアは少しばかり不思議な瞳を持っている。
菫色の彼女の瞳を見ると、誰しもぞっとして嫌悪感をあらわにする。だからどれだけ下手くそだと言われようとも、“影”として生きることは、アゼリアにとってはとても重要で、大切なことだ。なのに、この目の前の男性はまっすぐにアゼリアを見つめていた。
人と目を合わせたことなど久しぶりで、ぎくりとして困惑する。耳の後ろがぞっと熱くなるような、不思議な感覚だった。心臓が奇妙な音を立てていたから、再びやってきたディモルを前にして、アゼリアはひっそりと深呼吸を繰り返した。飲み込んだ唾を隠して、なんとか深くローブのフードを被ったところで、すっかり緊張している彼を前に、お守り代わりのお茶を差し出した。
彼女の頭の周りでは出ていけ追い出せと叫ぶルピナスが叫んでいる。それを聞き流しながら、普段の動作を繰り返すとすっかりなんだか落ち着いてくる。
覚悟を決めたような顔つきの青年に、どうぞと椅子を引いて案内をした。ディモルはわずかばかりに躊躇して、数日前と同じように年季の入った椅子に座り込んだ。静かな夜だった。
「その、本当に、信じてくれるとありがたいんだが」
そして同じセリフを繰り返した。勧めたハーブティーには申し訳なさげに手を添えたまま動かない。楽しむような気にもなれないのだろう。
そう、彼は大きな“間違い”を犯した。アゼリアも、それには気がついてはいた。ただ言いふらす相手もいなければ、口にするつもりもなかった。
でもそんなことはディモルにはわからない。
「今更ながらだけれど、改めて自己紹介させてもらうよ。僕の名前はディモル・ジューニョ。伯爵家の長男だ。君も“知っての通り”だと思うんだけど」
ディモルの言葉に、アゼリアは曖昧に笑った。彼からしてみれば、深くローブを被った彼女の口元程度しか見ることができないだろうが。
そう、彼はアゼリアに、自身の名前を知られていた。アゼリアは、うっかりそのことを彼に告げてしまっていたのだ。貴族である青年が、平民の、下手をするとそれ以下の扱いでもある影と交流をしていたなど、スキャンダルに他ならない。その上、なんとも意味ありげな言葉を残していった。
『ひどい呪いを受けたものだよ。夜の記憶はすっかりなくなってしまうんだから。もうだめだ。あんなの、しばらくは勘弁だ』
アゼリアを先代と勘違いして話しかけた言葉だ。呪い、と彼ははっきりとそう言っていた。
(ひどく、申し訳なかったわ……)
あそこでアゼリアが彼の名前を言わなければ、ディモルだって知らぬ存ぜぬを通して逃げ切ることができたかもしれない。きっと、再びこの小屋にくるまでの数日、彼は悩みに悩んだのだろう。あの影の女が、誰そやに言いふらしたりはしないだろうかと。貴族からすれば、庭園の噂ほど怖いものはない。おしゃべりをするには格好の場で、知らぬうちにひそひそと囁かれて、いつの間にやら大きな渦となり彼らを飲み込む。
何を言えばいいのか、とカップを両手で包みながらも小さくなるその姿は、噂できく社交界の色男とは程遠かったが、青年にも色々とあるのだろう。あいにく、アゼリアはそんな機微を読み取れるほど人との関わりは深くはないし、まっすぐに言葉を吐くことしかできない。なのですっぱりと告げてしまった。
「ジューニョ様は、精霊に呪われてしまったのですね?」
彼女の言葉に、ディモルはハッと顔を上げた。なんだか泣き出してしまいそうな、大人なのに、子供みたいな表情だ。言葉は顔が雄弁に語っている。恐らくごまかそうとした。でも、と首を振ったのは、自身が来た目的を思い出したのだろう。
「そう、なんだ」
長い溜息と一緒に、彼はゆっくりと頷いた。そうして、少しずつ語った。
「呪われたのは、僕ではなく、ずっと昔の先祖になるんだけれど――――」
***
ディモルは語った。ジューニョ家に伝わる、そのあまりにも情けない昔話を。
***
あるところにそれはまあ、大層な色男がいた。輝くような金の髪と、青い瞳の青年は、その容姿と口先とが相まって、彼が微笑めば次々に可愛らしく、美しい女性たちがやってくる。もちろん家だってお金持ちで、大きな屋敷を持っていた。そのあたりの説明をきいたところで、頭の中での画像はすっかりディモルの姿となってしまったわけだが、アゼリアは口をつぐみ、話を待った。
彼は一人きりの跡取りだったものだから、両親は奔放なその振る舞いは諦めてしまっていて、まあいつしか落ち着くだろうと見てみぬふりをされていた。それがよくはなかった。
毎日おいしいものを食べていれば、次に、次にとなってしまうものが人間である。美しい女性を抱きしめることにすっかり飽きてしまった彼は、旅に出ることにした。人が踏み入れてはいけないとされる不思議な森に旅に出て、湖の中に、この世のものとは思えないようなそれはもう美しい女を見つけた。
奇妙だとは思った。けれども、好奇心が勝ってしまった。男慣れもしないその女を、彼は全身全霊を以って口説いて、誘って、丸め込み一夜を明かした。すっかり満足して、朝の光の中で彼女を見た時、夜には光り輝くように美しいと感じていた肌が、本当にわずかに輝いていることに気づいた。まるで人間のものではない。そう、彼女は精霊だった。
彼が面白半分に踏み入れたその土地は、妖精の地と呼ばれ、彼女を中心としてできていた。精霊の夫なんて、冗談ではないと叫んだ男は、精霊の言葉に、幾度も首を振った。昨日のことは覚えていない。まったく、記憶になんてない。だからどうか忘れてくれ。怒り狂った精霊と、彼には見えもしなかったが、妖精たちの荒ぶりが、まるで地響きのように響いている。
ほうほうの体で逃げ出した。
必死に自分の屋敷まで逃げ帰って、ベッドで毛布にくるまり震えているとき、彼は前夜の記憶がすっかり消えていることに気がついた。
『記憶がないと言うのであれば、本当に記憶をなくしてしまいなさい!』
振り向くことすらなかったが、あの美しい女が叫んでいた言葉を思い返した。
それからというもの、ジューニョ家の男は夜九時以降の記憶を持つことができず、翌日にはすっかり忘れてしまうという呪いが残った。
神妙な声だった。
精霊は家を守る。とくに貴族はそれが顕著で、強い精霊がいる家は自然と権力を持ったと考えてもいい。そんな彼が、本当は血筋ごと呪われているだなんて。
ディモルは男前のその顔をすっかりやつれさせて、数日分の疲れを吐き出した。よっぽどやきもきしていたのだろう。当たり前だ、家の恥とも言える。
ただ不思議なことがある。「あの、ジューニョ様」 アゼリアが問いかけたとき、ルピナスはひどく頬を膨らまして、テーブルの上でそっぽを向いていた。精霊の仲間である妖精として、彼女も思うところがあるのだろう。こっそり頭を撫でてやって、言葉を続けた。
「それならこの間もお会いしたときも、夜の九時を過ぎていましたが、いったいどうやって?」
忘れてしまうというのであれば、自身が口を滑らせたこともすっかり忘れてしまっているはずだ。ディモルは、ああ、と頷いて、自嘲気味に笑った。
「眠るまではもちろん覚えているから、眠ってしまう前にメモをとっているんだ。そしてそれを次の日の朝に読み返すことを習慣にしている」
それなら、彼の心労はアゼリアが想像する以上であったかもしれない。次の日目覚めて、自身のやらかしを知り、とにかく狼狽したに違いない。その上、相手が影ということ以外何もわからないのだから。数日かけて、迷って、考えて、行こうか行くまいかと幾度も考えて、やっぱりやめて。
それでもなんとか覚悟を決めたのが今日ということだろう。
「どうか、このことを秘密にしてくれないだろうか!」
勢い余って頭を下げた彼には、驚き半分、すぐさまに頷いた。
「はいもちろん」
「かわりに僕にできることなら、なんだって――――ん? 今、なんて?」
「もちろんですとも」
あんまりにもさっくり返事をしてしまったので、もしかすると説得力がなかったかもしれない。ぱちぱちと瞬く彼に、「あなた様の秘密を、私が言うわけがございません」 ゆっくりと言葉を落とす。
「私は影です。この庭園で起こるすべてのことは、私の管理下にありますが、私はいないものと同じ。そんな影が、なぜ人の噂話をさえずりましょうか」
とはいいつつ、ご令嬢達の話から彼の名前を漏らしてしまったところはアゼリアのうっかりだ。今後はこれ以上に気を引き締めねば、と口元を引き結んだ。
“影”は人ではない。
それが貴族たちの共通の認識だ。家の中にひっそりとあるテーブルやタンスのように、庭園に付随する家具のような存在なのだから、本来なら彼が気にするべき相手ではない。その常識は彼だってわかっているはず。だから安心して欲しい、という言葉まではさすがに口にすることはできなかったけれど、とにかくそんな気持ちを詰め込んだ。
大丈夫、安心して。
本当は、声に出して伝えてしまいたかった。そんな気持ちが溢れてしまって、思わずうっかり青年と目を合わせてしまった。テーブルの上のランプの光が、くるくると青年の瞳の中で踊っていた。それから、くしゃりと笑った。びっくりした。
アゼリアはずれたフードをかぶり直して、ついでとばかりに心臓を抑え込んだ。人の目を見て話をすることは、どうしてこうも恐ろしいのか。
「突然、こんな夜分に現れて、驚かせてしまったと思う。仕事で疲れているだろうに、すっかり僕の事情に付き合わせてしまい、申し訳なかった」
「そんな、いえそれよりも」
この間から感じていたことだ。ハーブティーを淹れたアゼリアに、ありがとうと言ったり、謝ったり。そんなの、貴族が話すべき言葉ではない。
間違っている、間違っていないの話ではない。そうあるべき態度なのだ。
もしかするとディモルは、人よりもそういった感覚が薄い人間であるのかもしれなかった。そうでなければ先代の影のもとに幾度も通うようなことはしない。
「おじいさん、君にとっては先代、と言ったらいいのかな。彼と会うのはいつも夜だから、残っているのは僕が書いた日記の言葉くらいで、本当は顔だってわからないんだけれど」
会いたいと昼間に探しても、まったく見つからなくて、とため息をついた彼の気持ちはわかる。影は人ではない、と表す人間の気持ちがとてもよくわかるくらいに、先代は自然に溶け込むことがうまかった。葉っぱや木々のざわめきの中に姿を隠して、自身の存在などそれこそ土にかぶる影のように、見えなくなってしまう。
「とても、お世話になった方なんだ。だから亡くなってしまったと“読んだ”ときは、とても悲しかった」
その辺りで、すっかり出されたままのハーブティーに気づいたらしい。
この間と同じように、ゆっくりと味わうように飲み込んだ。
「僕は、覚えていないけれど。でもなんだか、懐かしいような気もする」
きっと、先代も覚えていないと言う彼に、何度も暖かなお茶を出したのだろう。
「ありがとう、おいしかった」と、また彼はお礼を言って立ち上がった。「こちらの都合ばかりで悪かったね。ただ、また次に来たときはおじいさんの墓に挨拶をさせてくれたらありがたい」と、彼が言った言葉に頷いたあとに、てっきりこれで終わりと思っていたものだから少しばかり瞬きを繰り返した。
ディモルにアゼリアの顔は見えないだろうが、そんな彼女の雰囲気に気がついたのか、青年はまるでいたずらっ子のように笑っている。
「城から帰宅する際、誰かに会ってしまうと、面倒だからね。メモはするけれど、次に会ったときに齟齬があることも多いし、少しばかり大変だ。人に会わないようにとすると、どうしてもこの場所を通ってしまう」
夜になると、庭園は影以外の出入りを禁止される。ただしディモルは第一部隊の騎士だから、警備であると説明すれば許可はとれる。それに、わざわざ禁止をされなくても、ざわつく夜の庭は気味が悪がって誰も近寄りはしない。
先代と、彼の関わりが少しばかり見えたような気がした。
「そうしましたら、また会う日まで」
自分でもびっくりするくらい自然と言葉が出てしまった。もちろん、ルピナスは信じられない、と怒っているけれど、アゼリアの歓迎の言葉をきいて、ディモルはこれまた嬉しそうに笑った。子供みたいな笑顔の人だ。
「君の名前を教えてくれるかな。忘れてしまっても、ちゃんとメモにはとっておくから」
朝目が覚めて、こんなことがあったのか、と彼は自室にて驚くんだろう。そのとき、アゼリアの名前を知る。それはなんだか素敵なことのように感じたが、まさかまさかと首を振った。
「私は庭師です。この庭園の影に過ぎません。どうぞ、“影”とお呼びください」
互いに立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
名前を名乗るなど、恐れ多いことだ。
沈黙が落ちた。否定の言葉に、腹を立てたのだろうかと恐る恐る顔をあげると、ディモルは顔を片手で覆って、必死に笑いを噛み殺していた。「いや、悪い。違うんだ。きみはおじいさんとまったく同じことを言うんだなあ、と思って」
――――名前? そんなもんどうでもいい。じじいでも、影でも、お前でもあんたでも、好きに呼べ。
先代の言葉だ。
何が面白いのかわからないのに、アゼリアとディモルは互いに声を上げてわらった。彼は明日になればアゼリアのことを忘れてしまう。姿も、形でさえも。
なのに、日記の言葉を思い出して、こんな少女がいたなと思うのだ。重っ苦しいローブを羽織った、不思議な少女のことを。
この日から、彼らの秘密のお茶会が始まった。
それは明日には忘れてしまう、泡沫のようなお茶会だ。
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