3杯目
長い沈黙ばかりが落ちていた。
テーブルの上には、ぽつんと小さなランプが灯されている。
これほどまでに人と見つめ合うことはひどく久しぶりだ。アゼリアは低い位置でくくった二つの髪の根本を掴んで思わず下を向いた。どうにも彼が勘違いしているようだから慌ててフードを脱いだけれど、ひどく心もとなくて、今すぐ顔を隠してしまいたい。いやそうするべきだ、とわかってはいるけれど、とにかく沈黙が重たかった。下手に動くこともできない。
ルピナスのしょぼついた目もやっとこさ覚醒してきたらしい。じわじわと眉と瞳を釣り上げて、唸っている。「こ、こいつ……」 それから怒っていた。
「きみ、お、おじいさん、じゃ、ない……?」
「当たり前でしょ!?」
青年に返答した声はルピナスだ。彼には聞こえない。落ち着いて、と彼女に心の中で語りかけながらも、ひどく興奮し始める彼女をそのままにしておくわけにはいかない。男にわからないように、違和感のないようにとそっと手を伸ばしてルピナスの羽根を片手で掴んで、ローブの内側に抱きかかえた。そうすると、また彼と目があってしまった。
じっくりと彼の顔を見て、ひどく驚いた。見知った顔であったからだ。ゆっくりと、頭の中で彼の名前を思い出す。ディモル・ジューニョ。伯爵家の長男で、王太子を護衛する騎士の一人だ。外套には妖精の羽根を表した徽章がつけられているし、護衛騎士の中で、金髪で青目の青年は恐らく彼のみであるはず。
ランプの灯りの中でもはっきりと分かるほどに整ったその容貌は、多くの令嬢を虜にしているときく。つまりは、社交界の色男だ。
そういった噂にはあまり興味がないアゼリアだったが、庭園での茶会のつまみに、少女たちが淑やかに、ときおり嬉しげな声を出しながら咲き誇る横で、影として隠れつつもくしゃみを繰り返してせっせと枝の掃除をしているうちに、自然と詳しくなってしまった。
ディモルと言うこの騎士は、夜会に姿を現したと思えば、気づけばどこぞのご令嬢を掻っ攫い消えてしまうのだという。それはまあ、お盛んな方なのだ、という話だ。不誠実な人柄のように感じるが、それでも彼女たちからしてみれば王太子からの信頼も厚く、家柄も悪くはないディモルは、美しい見かけも相まって、憧れのような存在であるらしい。
幾度となく話に上がっていた彼の名前と容貌はしっかりと頭に入っていた。
その顔を改めて拝見して、アゼリアは困惑のままに眉を顰めた。この方が、ディモル・ジューニョ様、と心の中で言葉を繰り返して、記憶を遡らせる。
二十歳は過ぎているはずだが、降り積もる雪の中で鼻の頭の上を真っ赤にさせている彼は、どこか幼気にも見えて、なんだか噂とはかけ離れているように見える――――と考えたあたりで、腕の中でじたばたとルピナスが暴れてはっとした。こんなことをしている場合ではない。
「だ、大丈夫ですか、ご気分が悪くなっているのでは? あの、無理をなさっているのなら――――」
「気分が悪く? いや、そんなことはないけれど」
そんなわけない。アゼリアは菫色の瞳をぱちぱちと瞬いた。誰だって、アゼリアと瞳を合わせると、ひどく苦しげな顔をする。その上、彼女は夜になると不思議と髪の色まで変わってしまう。
墨を垂らしたような髪から、薄い桃色へ、ゆっくりと変化する。そのことを知っているのは、ルピナスと先代くらいだ。自分でも気味が悪いと思ってしまう。
お前は影になることはできない、と先代はそう言っていたけれど、アゼリアは庭師として以前に、文字通りの“影”になりたかった。自身はそうなるべき人間なのだとすっかり思い込んでもいた。「それより」 ディモルが、静かに声を吐き出した。
「……おじいさんは、一体どこに?」
青年の声には、不審がにじみ出ている。
アゼリアは、さっと視線を落とした。
先程の気安さを考えると、彼は定期的に先代の元に通っていたのかもしれない。そんな人間がいたことなど初耳だが、アゼリアと先代は深く言葉を語り合う仲ではなかった。それこそ、互いに名さえも呼んだことはないから、知らないことも無理はない。
しんしんと、雪ばかりが降り落ちる。
ゆっくりと、アゼリアは顔をあげた。ディモルが吐き出す息は真っ白で、それがひどく寒そうで、あいかわらず鼻の頭も真っ赤だった。
言っていいものだろうか。
「…………死にました」
ごまかしても仕方がない。逡巡したのは一瞬だ。彼はアゼリアの言葉を飲み込んで、くしゃりと顔を崩した。泣き出しそうだ、と思ったのは仕方のないことだった。
***
愕然と崩れ落ちる青年を、アゼリアは茶会に誘った。いつまでも寒さに震わせているわけにはいかない。夜間の来訪者に、とにかくルピナスは怒り狂っていたけれど、おちついて、と小さな彼女の頭をひっそりと撫でた。
小屋そのものとテーブルには、精霊の力が宿っている。座るとふんわりと暖かく、雪だって積もらない。アゼリアに誘われるがまま、力なく椅子に座り込む男を、改めてじっくりと見つめた。ひどく整った顔つきだった。どちらかというと線は細く、髪の毛はさらさらとまるで絹の糸のようだ。
幼い頃に両親から寝物語に語られた王子様みたいな男性で、着ている服はしっかりとしたあつらえだ。そんな彼を前にして、自身の可愛げの欠片もない服が少しばかり気になったことは否定しないが、今更恥じても仕方がない。
「あの、ジューニョ様……」
がっくりと肩を落とす青年に、なんと言えばいいのかわからないまま、とにかく声をかけてみると、ディモルは驚きに勢いよく顔をあげて、目を見開いた。
「僕のことを知っているのか?」
「ああ、ええ、まあ。そちら第一部隊の徽章でいらっしゃいますし……」
騎士団はいくつかの部隊に別れていて、その中でも王太子専属と言われている部隊である。政治に疎いアゼリアでも、その程度のことは知っていた。その他、色々ときいている噂を思い出して、とにかく、とアゼリアは咳をついてごまかした。まさか本人を相手にして、色男と言うわけにもいかない。
胸の中では、しびれを切らしたルピナスが、ぱしぱしとアゼリアを叩いてくる。痛くはないけれどもくすぐったい。
「ジューニョ様が、先代と交流があったとは存じ上げませんでした。ご連絡もせず、申し訳ございません」
「いや、彼とは夜に会うばかりだったから。それよりも、驚かせて申し訳がなかった。君は、おじいさんの孫なのかな?」
「いいえ、まさか」
ちっとも似ていないでしょう、と苦笑するアゼリアに、ディモルは曖昧に笑った。それはなんだか奇妙な表情でもあった。首を傾げながらも、アゼリアは彼に紅茶を入れた。テーブルの上にカップを置くと、不思議なことに温度は変わらず、いつでも温かい。「もしよければ、どうぞ」 こんな夜中に来るやつに、わざわざお茶なんて出すことないじゃない! と必死にルピナスは叫んでいるけれど、ディモルには聞こえないので気にしない。
彼はぼんやりと座り込んで出された紅茶を見て、それからアゼリアを見上げた。幾分か遅れて、「ありがとう」と頭を下げてくれたので、アゼリアは瞬いた。そんな彼女に、ディモルは気づく様子もなくまた自身の手元を見つめた。
ついつい呼び込んでしまったものの、お茶まで出すだなんてやはり失礼だっただろうか、と不安になってきたはずが、ディモルはためらうことなく優雅な手付きでカップに口をつけた。礼儀作法がしっかりと根づいている。と、思えば彼はパチリと瞬いた。しまった。
「すみません、ハーブティーは苦手でしたか」
「いや大丈夫。温かくなってきた」
人に出すには通好みだったかもしれない。寒い日には、スパイシーなその香りがお気に入りでアゼリアにとって、冬にはかかせないハーブだ。小屋の端では冬に関わらず、年中、小さな黄色くて可愛らしい花をたくさん咲かせている。
厳密に言うと、紅茶はハーブティーではないが、夜のお供にしてしまうのは子供の頃から変わらない。先代から教えてもらったものだ。もしかすると、ディモルも飲んだことがあるのかもしれない。
「先代は私よりも、ずっとお茶を入れることが得意でした。ジューニョ様も、お飲みになったことが?」
故人を偲びたくなるような気持ちになったのかもしれない。なんていったって、この小屋は元は先代が住んでいたのだ。彼がいなくなってから、まだ一月。未だにしんみりとした気持ちになってしまう。
問いかけると、「……そうだね、ある……かな」 なぜだかディモルは歯切れの悪い言葉だった。訝しげに片眉を寄せると、彼はけほん、と咳をしてごまかした。ような、気がした。その代わりとばかりに、今度は青年から尋ねた。
「おじいさんは、いつ頃お亡くなりに? ついこの間、会ったばかりだと思っていたんだけれど」
「そうですね、一月ほど前です」
「……一月。ちょうど、僕は任務で不在していた頃だ」
「高齢でしたから。八十は過ぎていましたから、仕方がありません」
自分に言い聞かせるようにアゼリアは告げると、ディモルは驚きにその真っ青な瞳を丸めた。「そんなにご高齢でいらっしゃったのか」 何を言っているんだろう、とまたまたアゼリアは首を傾げた。
いくら深くローブを被っていようとも、顔は隠しきれるものではないし、力仕事はもうほとんど土人形に頼っていた。先代が老人で、かつ高齢であるなど、 “見ればわかるはずのこと”を、彼は今更ながらに驚いている。
奇妙な間が落ちた。アゼリアの訝しげな視線にディモルは気づいているのか、ひどく気まずげにゆっくりとハーブティーを飲み込んでいく。ごくり、ごくり。
飲み終わったところで、青年はゆっくりと立ち上がった。「すまない、ありがとう。話を聞けてよかったよ」 そう言って、そそくさと立ち上がって、軽く頭を下げた。静かな夜の闇に消えていく背中を見て、すっかりアゼリアの服の中から飛び出したルピナスが、しっしと両手を振っている。「もう来ないでよ! あっちに行け!」
と、彼女が叫んでいたというのに、ディモルが再度やって来たのは、数日後のことだ。先日と同じような時間帯だ。ルピナスはあいかわらず悲鳴をあげていたが、ディモルには見えもしないので仕方ない。
彼は覚悟を決めたような顔つきで、先日と同じように立ち尽くしていた。
今日のところは雪は降っていないので鼻の頭は赤くはない。それでも昼間に降り積もった雪の上に足跡をつけて、青年はぎゅっと両手を握っていた。
「……その、先日は申し訳なかった。思わずごまかしてしまったけれど、あれからひどく考えたんだ。これから僕が話すことは、君にとってはバカバカしくも感じるかもしれないのだけれど、本当のことなんだよ。できれば信じてくれるとありがたい」
そう言って、気の毒なほど細っこくなってしまった声をきいて、これはもしかすると、まずはお茶の準備が必要かもしれないと慌てた。長い話になりそうだ。
ローブのフードは、脱いでしまうかどうか考えて、やっぱりと深く被ってしまった。
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