四十三

 桑の葉の薮を出て、百姓家の正面に出た政次は、長屋のよりも粗末な板戸を、どんと叩いた。

「おはようございます。佐賀町の政次でございます。おし津さん……由兵衛さん……。朝っぱらから、無礼なことでございますが、おれは、棒手振ぼてふりの、政次ですよ」

 返事は、ない。

 ただ、政次にも、わかった。

 あたりのに較べても粗末な家だが、これは、廃屋では、ない。

 泥もついていないような、くわやらすきが立てかけられているのは、百姓の家と言うにはみょうなものだが、たしかにここには、人の、息づかいが、ある。

「はやくから、ごめんなさいよ。しかし、わけあって、ここに来たんだ。せんせいが、言うんです。ここに、由兵衛さんと、おし津さんがいると、言うんですよ」

 音が、する。

(もしも違ううちだったら、おれはどうしたらいいんでえ)

 心細くはなるものの、ここまでの舟での道中、そして安斎先生の信じ方を思うと、ふたりが必ず、ここにいるという気が、してくる。

「由兵衛さん、おし津さん。おれの声はわかるでしょう。出てきて欲しいのさ」と、言いながら、政次はわれしらず、えへんと咳払いをすると、「あーさり~、しーじみ~、あーさり~、しーじみ~」と、呼ばわっていた。

 明らかに、中で、ひとが動いた。

 がたんと音がして、一寸ばかり、戸が開いた。

 暗いうちに、さらに暗い部屋の中は、なんにも、見えない。

 しかし、まもなく、がたっと音を立てて開いた戸から見えた白い顔は、おし津、だった。

「やあ、おし津さん!」

「政次さん!」

 まだ陽は昇らないのだが、おし津のあたりは、さーっと明るくなったようだ。

 その後に、人影。

 由兵衛である。

 言葉もなく、暗がりの中で、目を丸くしている。

 ふと気づくと、政次のうしろには、安斎先生が立っていた。

「由兵衛どの、久しぶりだな。……もっとも、あの夜は、名乗りも聞かなかったが」

「たいへんお世話になりましたのに、ご挨拶もなく、失礼をいたしました」

「うむ。しかし今は、固いことは抜きだ。おまえさんたちに、迫った急があるよ」

「……」

 おし津と由兵衛は、顔を見合わせている。ともに、ほの白く、こわばった顔だ。

「とにかくここでは、何だよ」

「はい。ごらんの通りの汚いあばらやですが、どうぞお上がり下さい」

 百姓家らしく広々とした土間の上に、八畳敷きほどの部屋があって、囲炉裏が切られているらしい。

 由兵衛はまだ消えていない熾火おきびの中から火を取り出し、油の皿に火を移す。

 ぼんやりと浮かび上がった家の中は、黒く煤けてはいるが、思ったより屋根も高い。

 おし津はつと立って、手早く夜具を畳もうとする。

「あ、いや、おし津。そのままでよい」

「でも……」

「これには、わけがあるのだ。そのままにしておきなさい。みな、ここに集まって、頭を寄せよ」

 政次には、五郎がいないのが、なんだか心細かったが、それにも子細があるのだろう。

 安斎先生は、それを見抜いたわけでもあるまいが、

「いま、わしのうちの五郎という者が、時間を稼ぎながら、ここへ向かっている。五郎は、一人では、ない」

「……」

 誰も口をはさむ者は、ない。

「履き物の鼻緒を切ったか、足をくじいたか……いずれにせよ、ひと芝居を打ったはずの五郎の後には、二人がついてくるはずだ」安斎先生は、ここで一度、言葉を切る。「……わしの見立てでは、追っ手の二人は、刃物を持っている」

「ああっ……」と、思わず息を漏らしたのは、おし津だ。

 由兵衛は、膝の上で拳を固め、こわばっている。

「して、この家の裏は、どうなっている?」

「そこの小さな裏戸を出ますと、かわやと物置があります」

「では、おまえさんたちな、今すぐそっと出て、物置に隠れていなさい。わしが声をかけるまで、何があっても出てきてはいけない」安斎先生は、二人にそう言いつけると、長助の耳に口を寄せて、何事かを囁いた。そして、二人に向き直り、「さあ、早く行け」

 二人はよろよろと立ち上がり、裏の木戸を開けて出ていった。長助もそれに続く。

 残されたのは、安斎先生と、政次のみ。

 安斎先生が灯明を吹き消すと、家の中は真っ暗になった。

「さて……。政次とお床入りしようか」

「えっ?」

「わしは囲炉裏の側に寝る。おまえは奥だ」

「どういうことなんで」

「よいからはやく、布団へもぐりこめ。ただし、眠り込んではいかんぞ。二度と目覚められないかもしれぬゆえ、な」

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