四十二

 舟は蛇行する大川を、どんどん遡った。

 そのつど、舳先にいる五郎が、川幅や方角を案内する。

「十間ほど先で、左の浅瀬に、気をつけなすって。……もうあとわずか」と五郎が指図するのに従いながら、佐助は、

「さて、どこで停めましょうかね。岩淵の船着きがいいのか、それとも隠れたようなところか」

 安斎先生は、きっぱりと、

「宿場にいちばん近いところで、目立つように、停めてくれ」

「がってん」

「わしらが戻るのは、昼になるかもしれない。佐助には悪いが、待っていてくれるかい」

「へぇ。むしろをかぶって眠っているんで、何刻だって、かまやしません」

「眠るのはかまわないが、あと四半刻は、目を覚ましていてくれよ」

「へ?」

「うしろの舟は、まだ尾行つけてきているだろう。何者かわからんから、佐助さんに、もしものことがあってはいけない。みょうなことが起きるようなら、その時は、どこへなりとも逃げてくれ」

「わかりやした。仰せの通りにいたしやす」と、言いながら身体を抱くように両腕を揉んでいる佐助は、かなり疲れたようす。


 岸に上がって、先へ立つのは長助である。

 もはや、江戸とはい言えない朱引きの外だろうに、よほどの土地鑑でもあるのか、長助はさっさと歩いていく。

 すぐに、神社へ出た。

 政次の知らないところで何か打ち合わせでもあったのか、長助を先頭に、安斎先生と五郎は、やしろの裏に回る。

 まだまだ暗いが、東の空には、もうじき明けそうな、気配がある。

 長助は、わざとじめじめしたところを選ぶようにして、杉の木立の下で立ち止まる。

 みながそこで、身を屈めた。

「五郎は、いま来た道を、よく見てこい。長助は、図面を出せ」

 命令口調の安斎先生は、いつにもまして、厳しいようす。

 五郎は、うなずくでもなくその場を去る。

 長助は火を打ち、小さな提灯を取り出す。

「おいらは、何をすればいいんで」

 政次は思わず、問いかける。

「……」

「せんせい……」

「せいぜい、力でも、ためておけ」

 政次に、まんぞくな心持ちは、しない。

 長助は、懐から短冊形の地図を取り出し、ぱらぱらと開いた。

 安斎先生とともに、暗い灯りをたよりに、何事か話し合っている。

 邪魔にならぬようにと気づかいながら覗き込むと、その地図、岩淵の宿場に関しては、ずいぶんと細かい書き込みがあるが、それきりのものである。

 いつの間に描いたものか、おし津の部屋の味噌樽の下から出たのと、由兵衛の傘から出たやつを合わせた図面が、出来上がっている。

 その図面と地図とを照らし合わせていた安斎先生が、

「からくりまいまいや」

(なんのことだろう)と、政次は考える。

「おい、からくりまいまいの、政次よ」

「へっ?」

「ここにあるのは、れいの図面と、岩淵宿の地図だよ。この、点を打ってあるところに、おまえのおし津が、かくれているかもしれぬ」

「おれの、おし津……」

 政次は暗闇の中で赤面する。

「えい。くだらぬところで、逡巡するのではない。これらを見て、おし津は、どこにいると思うか」

 政次は安斎先生と長助の間に割って入り、地図と図面とを見比べる。

 図面の右上には確かに、さっき別れてきた、荒川と大川らしき流れ。

 地図にも同じ、うねりがある。

 それらを重ね合わせると、岩淵もちょうどぴたりとそこに、ある。

 由兵衛の傘の中にあった紙の、真っ直ぐな線と、そこに打たれたいくつもの点が、難しい。

 だが――。

「せんせい……。おれの浅知恵で申しわけないけれど、この図面の上が、の方角だとするなら、この点は、ひつじの方角かと……」

「政次、そんなことは、わかっておるよ」

「へぇ。すんません」

「いま来た道からしても、おおむねの方角は、わかるさ。……おまえに聞きたいのは、ここからどちらが、未かさるかということだ」

「えっ」

「魚屋のおまえなら、この時節に陽が昇るのは、どちらの方角かが、わかるだろうと言うのだ」

「そりゃあ、やがて、誰の上にだって、おひさまは昇るでしょう」

「馬鹿っ!」と安斎先生は、厳しく言った。「尾行て来ている舟を、見ただろう。わしらには、もう、時はあまり、残されていないのだ」

 ここに至って、政次も、ぴりっとした。

「この季節なら、おひさまが昇るのは、ぴったりのとらから、少しの方角ですよ」そう言いながら、政次は空を見わたした。

 うっそうと木が繁る神社の裏だが、ある方角だけ、ほんのわずかに、闇が紺色になっている。

「あっちを、寅としてみましょう」と言いながら、政次は腕を延べて、そちらを向く。「なんとなくだけれど、この時節のおてんとさまは、卯に寄りがちなので……」

「して……」

「ちょっと向きをあんばいすると、すこし右がたつになる。それから、うま……」と身体を回し、「未申ひつじさるは、おれの見立てでは、こっちだ」

「よし。おまえを信じようさ。……ときに、長助さん、赤羽の村は、ここから、何里ほどになろうか」

「しかとはわかりませんが、十町あまりの見当かと」

「若い奴の足で、千と二百くらいの歩数だね」


 あたりに道らしきはあるが、あぜのようなものが縦横無尽で、そこかしこに百姓の家が点々とあるだけ。

 それも、慣れてきた夜目に、やっとそれと知れるくらいで、どこがどういう家かは、わからない。

 安斎先生からは、

「おまえは道の右往左往にかかわらず、歩数を数えながら、未申の方角だけを指していろ」と言われ、政次はまるで、やじろべえのように腕をさしのべ、歩いて行く――「いーち、にーい……」と、歩数を数えるやじろべえ。

 右往左往はあったものの、千二百を目安に、未申の方角へ向かう道は、由兵衛の図にあった筆の筋と、なんだか似ているようにも思われた。

 そこはかとなく、後から、明るくなってきているようにも思われるが、明けの六つにはまだ、半刻はあるだろう。

 あと百歩ばかりと思われた先に、小さな百姓家があった。

 どことなくあたりの家と違って見えたのは、その家の周りだ。

 あたりの家の周りには、夜目にもそれとわかる、緑の苗が植わっているのにひきかえ、その家の周りだけは、桑と思われる低い薮が取り巻いている。

 茅葺かやぶきの屋根も、なんだかぼさぼさとしていて、ただの貧しい家とは違う、さびれた様子。

「せんせい……」と、政次はその直感を伝えようとしたが、

「政次よ、黙れ。手を差し伸べて、数えていればよい」と、安斎先生に一喝された。

 そして、政次が千と二百ばかりを数えた時、その家に、着いた。

 まだ、暗い。ほんのわずか、歩いて来た道の方角が、紫色に、染まりかけている。

 安斎先生は、桑の薮をがさがさとかき分け、長助に向かって、うなずいた。

 長助は、返事もせずに、そこらを踏み固める。

 政次も手伝おうとするが、足半あしなかしか履いていないので、かかとがひどく、痛い。

 痛いけど、頑張った。

 三人がなんとかしゃがめる場所を作り、うずくまる。

「せんせい……」と、小さく、聞いてみる。

「何だ」

「五郎さんは……」

「五郎か……。ゆっくりと、わしらを追っているさ。いや……斬られているかな」

「ええっ?」

「ふふふ……」

 こうなるともう、政次に、二の句は継げない。

「あたしの目でも、うっすら、見えますね」と言うのは、長助だ。「五郎さん……わざと、立ち止まって、みせた……」

(何が、どうなっているんだよ)と、政次は、身体が震えてくる。

「よし。頃合いだな」と、安斎先生は、低く、つぶやく。「政次、おまえの出番だよ。その家に行き、おし津を呼ばわれ」

「えっ? おし津さんを?」

「由兵衛を、でもいい。おまえということが、わかるようにな」

「どういうことなんで?」

「こういうとき、深く考えるものではないよ」

 安斎先生は、小さな拳を作って、政次の脇腹を、突いた。

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