四十一

 真っ暗な大川を、佐助の操る猪牙舟は、ぐいぐいと遡っていた。

 波立ちと、顔に当たる風で、その、もうれつな速さがわかる。

 舳先へさきには、夜目のいい五郎、そして長助が続き、安斎先生を挟んで政次がうずくまっている。

 さぞや重い舟だ。

「せんせい、岩淵までは、どれくらいあるんで」

 政次は小声で聞いてみたが、安斎先生は、

「さてな」と、にべもない。

 佐助はしきりにを操りながら、

「きっちり測ったことはありやせんが、まあ、六里から、といったところでしょうや」

「六里!」

 政次が商売で歩くのが、広く見積もって、せいぜいがところ、一里四方である。

「まあ、かみへ行くほど、この大川ってやつは、くねくねしていやがるもんでね」と、佐助はひょうひょうしている。「千住を越えたあたりで、まあ、半ばというところでしょう」

「真っ暗闇で、千住がどうしてわかるんで?」

「そこは、おれっちも、船頭だからね」

 こんなやりとりは、もうすでに何度もあったことなのかもしれない。安斎先生は、何ごとも聞かなかったように黙っている。

 夜更けだ。

 川の端には、ひとつの灯りもない。

 と、佐助が、

「うしろにもう一艘、舟があるようだね。吉原なかも、もう、大門の閉まってるころだろうに」

 先生は丸めていた背中を、つと伸ばし、

「五郎……」と呼びかけた。

 五郎は身を屈めたまま静かにともへやってきた。政次は船べりをつかんで、身を脇へ寄せる。

 五郎はしばらく後を見ていたが、

「かたちからすると、痩せた侍らしいやつが舳先にいて、頭巾をかぶったやつがその後に。あとは船頭しか見えません」

「ほう……」と、安斎先生は、悠然としている。

 佐助は、

「こっちの舟の引く筋を、目当てに漕いでるんでしょう。楽な仕事をしてやがるね……。ちょっと腕に力を入れて、引っぱがしてやりましょうか」

「いや、佐助さんよ……先はまだ長いから、無理をしなさるな」

 そう言いながら、安斎先生は、煙管入れを取り出し、火打ちを使おうとする。

(これじゃあ、うしろの舟に、ますます目印を作ってやるようなものだよな)と、政次は少し、いまいましい。

 安斎先生は、かまわずゆっくりと一服つけている。

 言問橋ことといばしを過ぎた――というのは、佐助がそう教えてくれたからである。

 佐助はもくもくと艪を使っていたが、

「おや、妙だぜ」とつぶやいた。「あの舟、曲がらない……。山谷堀を上がっていかないよ。てっきり吉原ゆきかと思っていたんだけどな。まだ着いてくる」

「おや、そうかね」と、安斎先生。「どこまで着いてくる気かしれないが、せいぜい水先を案内してやれよ」


 鐘ヶ淵かねがぶちを過ぎて、川は大きく曲がる。

 安斎先生は佐助に命じて、

「ここから流れも速くなる。艪を上げて、ちょっと一服するといい」

「でも、うしろの舟に追いつかれちゃいますぜ」

「それならそれで、かまわんさ。今度は追いかけてやるといい」

 安斎先生は、かっかと笑う。

「じゃ、お言葉に甘えて……」と、佐助は艪を離し、煙草を取り出す。

 長助が、携えていた荷物をほどくと、どうやら夜目にも、菓子の様子。

「わしは要らぬ。政次、取れよ」と安斎先生が言うので、遠慮無く手に取った。

 この時刻に、どこで誂えさせたのか知らぬが、ぷわぷわの大福である。

 ひとつ取って、佐助に回す。

「ああ、ありがたいや。これでまた、馬力が出るってもんだ」と言いながら、二つほどわしづかみ。「……にしても、へんだなあ」

「なにが?」と政次。

「うしろの舟も、止まりやがったよ」

 夜目にすかして見ても、どこに舟があるのか政次には見えないが、確かに近づいてくるものは、ない。

(もしかして……)と、さすがに政次も思う。(うしろの舟って、こっちを尾行つけてやがるのか)

 佐助は大福を飲み下すと、川の水に手を伸ばして何度か掬い、喉を鳴らした。

「さて、行きますぜ。うしろの野郎をぶっちぎってやる」

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