三十九

 長助が提灯を手に先に立ち、暗い道を歩いた。

 どういう話がついているのか、木戸を抜けるのも、わけはない。

 むしろ番太郎が、小さく腰を屈めているようす。

 政次はずっと考えていたことを、小さな声で、聞いてみた。

「長助さん……せんせいってのは、いったい何者なんで?」

「先生は、お医者でしょう」

「いやもちろん、それはわかっているんで。おれが言いたいのは、五郎さんや、あなた……長助さんを、使いこなして……」

「あたしは別段、使いこなされているなんてことはございませんよ」

 長助の声がいくらか硬いように感じられて、政次はそれ以上を問わないことにした。


 おし津の部屋も、あの日以来、何も変わったことはないようだった。

 ただし、鏡台の位置は、ごろつきどもによって動かされ、三味線は横倒しになっている。

 長助は火鉢の灰を掻き回し、畳の隙間に指を這わせた。

 こういうことには鼻の利きそうなごろつき三人が、時間をかけて調べたのだ。

(長助さんが調べると、また変わったものを見つけるのかな)

 と、長助は土間からの上がりかまちに手をかけ、三尺ばかりの幅の床を持ち上げた。

 政次は驚いた。自分の部屋には、そんな気の利いた《しかけ》は、ないからだ。

「悪いが、提灯を掲げていてください」と長助に言われるままに中を照らすと、味噌樽のようなものがひとつ。

 長助は蓋を開け、中にあったしゃもじで念入りに味噌を掻き回している。

 何もない。

 政次が、ふと気づいた。

「長助さん。重そうな樽だけど、地べたの輪っかが、ずれているようですね」

「輪っか?」

「ほら、手前のところが掘れてて、樽はずっとそこにあったようだけど。今は、奥にずれてるじゃありませんか」

 長助は、はっとしたように、樽のへりに手をかけ、傾ける。

 もう一方の手を差し込み、樽の下をまさぐる。

 引っ張り出されたのは、降りたたまれた、紙。

 泥に汚れてはいるが、湿気たようでもなければ、腐ってもいない。

 長助が慎重に開くと、余白を大きく残した右上に、墨で黒々と、太い線が描かれているだけ。

「なんでしょう、それは」

「さて……」と、長助も首をひねっている。

「まじないか何かですかね」

「あたしは、読めません。それにしても、まじないにしては、みょうなところにあったものだ。それに、古いものとも思われませんね」


 政次の長屋は、外から見たところ、何も変わってはいなかった。

 ところが戸を開けると、なんとも言えない、えた匂いが漂う。

 うしろにいる長助の鼻に、それが届いたかどうかはわからなかったが、

「めんぼくねえ。くさい部屋です」

 そう言い訳しながらも、売り物の貝の殻や商売用の桶が発する匂いではない。

「むさいところですが、まあ上がってください」

 長助は灯したままの提灯を掲げて部屋に上がり、灯皿ほざらに火を入れてくれた。 

「政次さん、部屋のようすに、変わりはないですか」

 ざっと見回したが、そもそも、たいしたものもない部屋。

 高いところに積み重ねた本にも変わりはないようだし、あのもぐらが狼藉した江ノ島の本は、火鉢の横に放り出されている。

(ああ)と思ったのは、土間の片隅に立てかけられた、政次の部屋には不釣り合いな、番傘だ。

 長助も同じものを見たようだったが、何も言わなかった。

 毎日、できるかぎり十六文づつ積み立てている店賃用の竹筒も、元の通り。念のため手にして振ってみたが、ちゃらちゃらと、頼りないがそれなりの音がする。

(あっ)と思って、神棚に手を突っ込んだ。由兵衛が置いて行った小判の隠し場所だ。

 紙に包まれたそれは、元通り、そこに、あった。

「何にも、変わったところは、ないようです」

「政次さん、失礼を承知で言いますが、あたしも一通り、見させてもらってよいかね」

「ええ、ええ。もちろんかまいません。ごらんの通り、何もない、汚いところだけど」

 長助はうなずくと、棚の上を探ったり、火のない火鉢を引っ張ってきてそれを踏み台にし、もっと高いところの横木を指で探ったりした。

 隣の秀助の家との壁はことさら念入りに、指でさすったり、目を近づけたりしている。

「政次さん、あの立派な傘は、あなたのものですかい」

「いいや。由兵衛さんが、道行きの邪魔になるからと、置いて行ったもので」

「あたしはあれを、調べてみていいでしょうかね」

「ええ。もちろんかまやしません」

 長助は、番傘を灯りのそばに持って行き、慎重な面持ちで調べた。

 柄の中に何かないか――しっかりと漆で塗り固められている。

 先っちょの石突きを覆った布にも、何かないかと、調べている――特に解かれた様子もない。

 長助は、用心深い手つきで、傘を開いた。

 政次がすでに見知っている通り、安物ではない、傘である。

 開いた傘の内側を覗き込んでいた長助は、首を傾げながらくるくると中棒を回した。

 受け骨で囲まれ、籠のようになった中に、何かを見つけたらしい。

 政次も覗き込む。

 中棒の周り、傘の開け閉めには関わらない奥の場所に、折りたたまれた幅の狭い紙が、巻き付けられている。

 長助は指を突っ込んで、受け骨の間からそれを引っ張り出した。

 開いてみると、厚手の紙に、何本かの線が斜めに引かれ、点が打ってある。

 文字は、ない。

「また紙だ。長助さん、なんでしょうかね、これは」

「わかりません」と長助は顔をしかめている。

「さっき、おし津さんのところで見つけたのと同じようですね」

 長助は深くうなずくと、懐にそれを納め、手で押さえた。

「政次さん。あたしは、連絡つなぎで来た意味があったようです。安斎先生にこれをすぐに届けようと思うが、いいかね」

「へぇ、へぇ。それはもう」

「先生も心配していなすったが、なんだかいろんなことが、妙になってきています。くれぐれも、気配りなすってくださいよ」

「ええ、それはもう」

「それと、これはあたしの余計なお世話だが……」

「……」

「神棚の大事なものは、なんとかしておいたほうがいい」

 さすがに長助には、見つけられていた。

「いっそ、預かってくれませんかい」

「いや。あたしはこれから、大事な紙を二枚、急いで届ける身だから」

「どうすりゃ、いいでしょうね」

「そこがあんたの工夫だ」

 長助は、その日で最初の、笑い顔を見せると、きびすを返して、土間を飛び出していった。


(それにしても、この匂いは、いったいなんだろう)と思った時、薄暗い流しの上に無造作に放り出された、竹皮の包みが目に入った。

 あの日、おし津がことづけて、あの汁粉屋ぶん福が持たせてくれた弁当だ。

 中身の飯と玉子焼きが腐ってしまったらしく、なんだかでらでらと光っている上に、えたいのしれない色のかびがほわほわと浮いている。

「なんでえ、くさいのはこれか」と思わずつぶやく。

(やつらのおかげで食いそびれちまったまま、こんなに腐っちゃった)

 政次は手を伸ばし、形も崩れた握り飯をつかんだ。

 表面は薄く乾いているものの、中身はどろどろだ。わしづかみの指がめり込む。

 その指の間から、にょろにょろと、糸を引いているような飯の化け物が流れ出す。

(包みのまま、棄てちまえばよかった)と思った政次の手に、なにかころりとしたものが当たった。

(梅干しだけは、腐らないってわけだな)と開いた手に載っていたのは、小さな、黒い、玉だ。

 大きさだけは梅干しほどだが、なんだか赤黒い紐が生えている。

 政次は井戸端に飛び出すと、水を汲み上げ、その不思議なものを、すすいだ。

 死んだ小鳥のように見えるが、もちろん小鳥ではない。政次はそれを懐に放り込み、いやな匂いのする、べとべとした手を、よく洗った。

 すぐにでも飛び出して行こうとしたが、

(そうだ)と思い当たり、神棚の小判を取り出した。

 少し迷ったが、半分ほど残っている酒瓶の中に放り込んで、ぱんぱんと柏手を打った。

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