三十八
「もういいぞ、長助」と、安斎先生に声をかけられ、長助は、身体を伸ばして座り直した。
政次も、こわばっていた肩から、力を抜く。
五郎が戻り、玄関に戸締まりをする。
四人が、安斎先生の座敷に集まった。
「侍は、川へは向かいませんでした」と、五郎。
「ああ、そうだろう。今夜はおおかた、萬屋に泊まるのだろうさ。それにしても、わかりやすい侍が、まるで、飛んで火にいるなんとやら、だ。なあ」
安斎先生は政次の顔を覗き込むが、
(どこがわかりやすいんだ)と、政次は戸惑うばかり。
「あたくしからの、ご報告が」と言うのは、長助だ。「猿若町の《甘泉堂》の妻女は、おつうというのでしたが、特には怪しいところもない女のようです」
「そうか。長助さんの調べなら、その通りだろうな」
「その後、万雀の家を張っておりましたが、暮れると同時に、長屋を出ました。役者ならぬ地味なこしらえをして、荷物を一抱え。ちょっとそこらへという風情ではありませんでしたが、あたくしが見たのは、そこまで」
「ああ、それでいいよ。どこへ行こうと、かまわないさ。……しかし、これで、絵師の雲才と万雀と、二人の男が、姿を消したことになるな。……して、政次、おまえは」
「えっ?」
「『えっ』ではないよ。おまえは、何を見た」
「何を見たと、おっしゃっても……」
椹木市郎衛門という侍が、どういうわけか、おし津の行方を追っている、ということは、わかった。
しかしそれが何故なのか、政次には思いも寄らない。
ただ――と政次は考えた。
「思い当たることを、言ってみろ」
安斎先生に促され、政次は、唇を舐めた。
「知恵の少ないおいらの考えを、申し上げます……。えーと……。萬屋の番頭の由兵衛さんが、血を分けた兄弟の七兵衛さんの罪をかぶってどこかに逃げたにしても、おし津さんは、萬屋にとってみれば、いわば、他人です。四郎兵衛さんや、さっきのお侍の椹木どのは、そこがどうにも、落ち着かないんではないしょうか」
「どうして、落ち着かぬ」
「それは、その……おし津さんが、ほんとの下手人は誰かっていうことを、やがて誰かに……」
「ほんとうの下手人と言うのは、誰よ」
「それは……やはり……七兵衛、さん……」
「おまえ、そう思うのか」
「……いや、正直なところ、そのようには、決して、思えないんで」
「なぜ、そうは思えないのだ?」
「……おれあ、七兵衛さんという人に、じかに会いましたが、どう考えても、女を……ご自分のご新造さんを手にかけるような人とは、思えない」
「それだけか」
「いや……それだけではないんで……」
「ほう」
「もしも、ですよ。もしも七兵衛さんが、何かの弾みで、殺ってしまったとして……。それでは腑に落ちないことがある」
「それはなんだい」
「先代の四郎兵衛さんのことです。いくらお店の体面のためとはいえ、婿の七兵衛さんが、かわいい娘を手にかけたというなら、いくらなんでもそれを揉み消すなんてことは……おいらにはあまり、思いが寄らない。いや、もっとも、大店の中のことなんか、おいらなんかには、わからないことだけど……」
安斎先生は、黙って聞きながら、銚子を手に取った。しかし空だったらしく、残念そうに眉根を寄せ、
「からくり好きの、まいまい太郎よ……いいところまで行ってるじゃないか」
「はぁ……」
答えながらも政次には、なにもかも、すかっとしないのである。
安斎先生が不満げに銚子のつるに手をかけているのを見かねたのか、五郎が立ち上がりかける。
「あ、いや、五郎。ちょっと待て」
「はい」
「わしは、今夜は、飲むよ。いや、今夜も、飲む。しかしその前に、めいめいの動きを決めておこう。
まず、まいまい太郎や……」
(え。おれはもう、まいまい太郎かよ)と、政次は内心、くさるが、
「へぇ……」
「おまえはともかく一度、長屋へ、帰れ。おし津が戻っているとは思われないが、いまいちど、何かの手がかりがないか、探せよ」
「へぇ」
「
して、五郎。念のため、だが、表を見ていてほしい。よもや、こないだのようなごろつきがやってくることはあるまいが、さきほどの侍――椹木なにがしが、何をしてくるとも限らないからな」
五郎と長助は、ともに黙って、うなづいている。
「せんせいは……」
「ん。あと一杯だけ飲んで、寝るのさ」
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