三十七
療養所では、五郎が一人、留守番をしていた。
「ごろつきどもは、どうした」と、安斎先生。
「昼も遅くなって目を覚ましたので、ちょっと因果を含めてやりました。ふらふらになって帰って行きましたが、あの身体じゃ、やつら、しばらく悪さもできないでしょう」
「ははは。ばくちを打つには、左手があればじゅうぶんだろうがな」と安斎先生は笑う。
「ときに、先生」と、五郎は懐から一通の書状を取り出した。「ごろつきどもが出ていくのと入れ違いだったのですが、ある
安斎先生は書状を受け取り、封を解いて読み入った。
長い巻紙に記された、たいそうなものである。
「ふん。これは少し、面白いことになってきたぞ。……五郎や、千春のところまで一走りして、新しい酒と、何か酒肴を
「ととのえろ、って……」
「まず、湯へ行って、わしの箪笥から、手頃な
五郎は立ち上がり、素早く出ていった。
政次は、もじもじするしかない。
「せんせい、おいら……」
「ん。ああ、湯銭だな。これは悪いことをした」と、安斎先生は、金入れを取り出して、何枚かの銭を持たせてくれた。「頭も剃ってもらってこいよ。ただし、五つまでには戻るようにな」
湯に浸かりながら、政次は考える。
(おいらも、いけねえな。成り行き任せでせんせいにくっついてはいるが、湯銭にも事欠くありさまだよ。明日こそは商いに出なくちゃならねえ)
とはいえ、ことはあまりにめまぐるしかったのだ。
ごろつきどもが、おし津の家を家捜ししていたのに出くわしてから、わけのわからないことばかりが続いている。
(そういやあ、おし津さんは、どこでどうしているだろう。無事で元気でいてくれりゃあ、いいけど……)
今夜の一件が済んだら、まずは長屋に戻ってみなくては、と考えた。
ざっと身体を流してから、床屋で頭をやってもらった。
駆け足で療養所に戻った。
呼び出された千春が、いやそうな顔も見せずに、酒と肴の支度をしている。
「千春さん」
「あ、政次さん。着るものを用意しておきましたよ」
「かたじけない」
ふと見ると、安斎先生は寝所で身体を丸くして眠っている。
きれいに畳まれていた帷子に着替えて帯を結ぼうとするのだが、締め慣れない硬い献上の帯は、どうにも政次の手に余る。
仕方なく、千春の手を借りた。
「めんぼくねえ」
「いいえ。どういたしまして」
着込んだはいいが、安斎先生の着物は、どうにも寸足らずだ。
(妙なあんばいだぜ、これは)と思いながら、眠っている安斎先生の傍らに座った。
五郎の姿は見えないが、おそらくどこかに身を潜ませているのだろう。
気にしないことにして、待った。
五つ時の鐘が鳴った。
安斎先生は、せんから目が覚めていたかのように身を起こし、政次を見て、にやりと笑った。
「お目覚めですね」
「うん。よく寝た。おまえ、なかなかいいじゃないか」
「ちょっと窮屈です」
「それは、やるよ。お
「でも、こんなの、着ていくところがないもん」
「持っていればいいさ」
安斎先生は、めずらしく煙草盆を引き寄せ、一服つけている。
どことなく、緊張している様子。
表に、人の気配がした。
千春が応対に出ている。
「先生、お客様でございます」
「うむ。こちらに通っていただけ」
診療所の板の間を通って表れたのは、立派な体躯をした侍だった。
供の者は、いない。
侍は大小を外し、ゆったりとした動作で座ると、丁寧に手を突いた。
「大垣新田戸田家、
(戸田家といやあ、さっき茶屋に呼び出した侍のいる屋敷じゃねえか)
政次は顔色を変えないようにつとめた。
安斎先生は「こほん」とひとつ咳払いをして、
「ご丁寧なお手紙を頂戴しておりました。ごらんの通りの粗末なところですが、まずはゆるりと」
椹木と名乗った侍は、鋭い目を、政次に投げた。
政次はとりあえず、手を突いて深々とお辞儀をする。
市郎衛門は軽く会釈を返し、
「あらかじめお願いしておりました通り、安斎先生とは、一対一にてお話ししたいことが……」
「ああ。こやつのことなら、わしの眼鏡代わり。ただし、無学文盲のやからですので、お気にもめされぬよう」
(またかよっ)と政次は思うが、顔には出さないよう、じっとしている。
市郎衛門は不満げな様子だったが、安斎先生は悠々としている。
「しからば、そのように……」と言ったきり、市郎衛門は、一度、黙る。
千春が小さな咳払いをして、すっと戸を開け、膳を運んでくる。
小芋や昆布を煮しめたらしい鉢と、赤身の刺身、小魚の佃煮が載っている。
「粗末な肴ですが、まあ、一杯やりましょう」と、安斎先生は気さくな口調。
市郎衛門も、杯を取るしかないが、
「一杯だけ、お受けします」と、硬い様子。
「して……、文では判りかねましたが、椹木さまの病とは、どのようなものでございましょうな」と、手酌をしながら安斎先生。
「いや、あのような《書きかた》をしたことについては、お許し願いたい」
「では、病では、ないのですな」
「さよう。何も病んではおらぬ」
「椹木どの。ごらんの通り、わしは欲も得もない、町の医者だ。いっそ、何もかもあけすけに、話してみるというのはいかがかな」
「……」
黙ってしまった市郎衛門に、安斎先生は銚子を差し出して、注ぐ。
「わしが先に話すのがよいなら、そうしましょう」と、安斎先生。「萬屋のご新造、美雪さまは、気の毒なことだった。すでにこと切れてはいたが、その傷を診たのがこの安斎であるのは、ご存じでしょうな」
(なんで、ここに、いきなり)と、政次の全身が、耳になる。
「……まこと、さよう」と答える市郎衛門の顔は、蒼白だ。「
(いもうと、だと?)と、政次は混乱する。
「では、はっきり聞こう」と、安斎先生は、語調を厳しくした。「あのようなごろつきどもを、あちこちへ動かせたのは、なにゆえかな」
「それは……知らぬ」
「知らぬと、おっしゃるか」
「
「なにゆえ、か」
「言うまでもなかろう。すでに殺された不憫な身の上とはいえ、美雪の不行跡は、萬屋にとっては大きな恥。後に妙な噂を立てられないように……」
「絵師を追い払い、役者に焼きごてを当て……か」
安斎先生は冷酷な口調で言ったが、あの細面の侍、伊藤次郎衛門については触れなかった。
「やつらが何をしたかは、拙者は知らぬ」
「ほう。しかし、どれもが右手が動かぬようになって、よろよろと散っていったことは、ご存じであろう」
「むう……」
うなったきり、市郎衛門は、黙った。
「椹木どのよ、ここへ来られた、まことの目当ては、なんだえ」
「……実は、由兵衛を、探している」
「由兵衛さんを……。いまだ下手人として、追っているということかえ」
「……さよう」
「はて、それは面妖なことだな。四郎兵衛さんは、とにかく、ことを穏便にということで、由兵衛さんを、うちうちにところ払いし、そのことは、ごろつきどもにも言い含めていたはず。それが萬屋の事情であろう。なぜに今また、椹木どのは、由兵衛さんを、追おうとなさるか。なにゆえかな」
「それは……言えぬ」
安斎先生は、一口酒を含み、ぐっと飲み下すと、
「椹木どの、おぬしが探しておられるのは、由兵衛さんではなかろう。居所を知りたいのは、むしろ、おし津という後家ではないのかな」
市郎衛門の顔が、さっと青ざめたのを、政次ははっきり見た。
(この侍が、おし津さんを探しているだって?)
「なぜゆえ、安斎どのは、そう申されるか」
「それは、わしも……言えぬよ」
しばらくのあいだ、誰も、口を利かなかった。
安斎先生は杯を重ねている。
市郎衛門は両膝の上で拳を握りしめたままだったが、やがて、意を決したように、
「かくなる上は、ありていに申し上げよう。すでにご存じの通り、義父は由兵衛を逃がした。その
「逃がしたい者が逃げたのだから、おんな連れでも、それでよいのではないかえ」
「そうも行かぬ」
「なぜか」
「……言えぬ」
「ならば、話は終わりだな。萬屋の体面も、武士の面目もあるのだろうが、何を聞いても肝心のところで『言えぬ』の一点張りでは、どうしようもない」
「待たれよ。いまひとつ、訊ねたいことがある」
「なんなりとも」
「おし津という後家の住む長屋に、若い魚売りの男が住むと聞いた。その男、桐生の商人を
「さてなあ」
「香魚屋政次半兵衛と名乗っていたそうな」
そう言うと、市郎衛門は、じっと政次に目を据えた。
政次は目を伏せる。
(こりゃあ、ややこしいことになったぜ)
「そこにいる男ならば、わしがところで読み書きを習わせている書生もどき。なんでもないやつよ」
「失礼ながら、名前をなんとおっしゃる」
政次は戸惑って、安斎先生に目をやる。
安斎先生は運びかけた杯を止め、
「いかにお武家さまであろうとも、職や名をみだりに聞くのは《三脱》に背くのではあるまいかな」と、厳しい口調で言った。
「いや、これは、失礼つかまつった」
と、市郎衛門は素直に頭を下げる。
「わしは、《からくり好きの、まいまい太郎》と呼んでいますがな」と、安斎先生は笑う。
(まいまい太郎とは、いったいなんて言いぐさだ)とは思ったものの、とりあえず、救われたかっこうになった。
市郎衛門も、度肝を抜かれたのか、何とも言えないでいる。
と、診療部屋に通じる板戸の向こうで、男の咳払いが聞こえた。
「五郎か。なんだえ」
「患者さんでございます」
「おやおや。急病かい」
五郎は板戸をすっと開け、
「急に激しい
「そうか。では、急いで診てやらねばな。……椹木どの、そういうわけです。今日のところは、お引き取り願いたい」
「……」
「由兵衛……いや、おし津という後家の居所については、わしも心当たりを尋ねてみることを、しかと約すよ」
「かたじけないが、なにとぞ……」
市郎衛門は改めて手を付き、身を起こすと、傍らの大小を手に取り、膝を立てた。
「ああ、ところでな。思い出したわい。小日向で、戸田様の御家来と、会った」
「えっ……」
片膝を立てたまま、市郎衛門は、固まる。
安斎先生は、すっとぼけた口調で、
「いささか女々しいところはあるが、美しいお侍でな」
「……それは、いつ……」
「いつだったかなあ。昨日か……いや、なんの、今日のことだわえ」
「……安斎どのっ……」
「椹木どの、顔色が悪いが、いかがなされた。
市郎衛門はすっと立ち上がり、仁王立ちのていで安斎先生を見下ろした。
食いしばった歯の間から、
「この礼は、椹木市郎衛門、きっといたすぞ……」
「おやおや、怖い顔をなさっておるな」
「……」
「もう、夜も更けた。お供もないようだが、帰りは重々に気をつけなされ」
市郎衛門は、きっと安斎先生を見据えると、きびすを返し、板戸のわきにかしづいた五郎の脇を乱暴に抜け、座敷を出ていった。
「五郎や。お侍の提灯に火を差し上げてな。門までお見送りしなさい」
「へい」
診療部屋の床では、男が身体を丸めてうずくまっていた。
苦しそうに顔を歪めている――ふりをしているのは、長助だった。
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