三十六
大の字になって寝ていた船頭を起こし、猪牙舟を下らせた。
時刻は七つを過ぎ、やがて暮れかかるころである。
神田川の流れは、すいすいと滑らかに下る。
煮売りの店で黙ったきり、政次は口を利かないままだった。
安斎先生は、通い徳利を腕にかけ、まだ飲んでいるが、どうもその傾きかげんを見る限り、残りも少ないようだ。
ふーっと酒臭い息を吐き、
「どうだった、今日は」と、訊ねる。
「えー」と、答えかけたとき、政次の喉は、乾いて絡まっていた。「まずは、楽しい船旅を、ありがとうございました」
「それからは」
「えぇ。見たこともない町に、楽しみました」
軽く会釈をしたのだったが、安斎先生は、
「ふっ」と、人を小馬鹿にしたような調子である。
「せんせい……」
「おまえの
「それやぁ、もちろん」
「だったら、何を見た」
「……」
見たもの、と言われれば、落ちぶれた役者がまだごろつきを怖れているらしいことと、女を思って涙を流していた若い侍だ。
(それ以上、何かを見なくちゃいけなかったのかな)と、政次は言葉に詰まる。
「あの侍、どう思った」
「へぇ。たいそう気の毒なことだと」
「どうして」
「殺された女を思って、ぽろぽろと、泣いていたじゃありませんか」
「おまえも、甘いのう」
「えっ」
「あれは相当の役者だよ。万雀より芝居は上かもしれぬて」
「うそ泣きだったっておっしゃるので?」
「おおかた、袖口に忍ばせた
「それじゃあ、
「おまえはどうしてそう、慌てた考えをするのだよ」
「だって、おいらには、まるで筋書きがわからない」
「まあよいわ。わしは少し休むよ」
言うなり安斎先生はごろりと横になり、やがて、眠ってしまった。
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