三十五

「伊藤どの、これで誰もいないも同然ですよ。お役目のあいだに出てこられたなら、さほど時間もありますまい」

 安斎先生は、やわらかに切り出した。

「うむ。さよう」

「医術には、身体を治すとともに、心を癒すという働きもございましてな。疱瘡ほうそうやコロリなどの、恐ろしい流行病はやりやまいは別としても、世の中のおおかたの病は、心の病みから来ているものだ。《病み》は、暗闇の《闇》にも通ずる。人の心にわずかなりとも闇があれば、それはやがて、心の病みとなり、身の病ともなるのです……」

 安斎先生は、とくとくと語る。

(なるほど、学のある人というのは、うまいことを言うなあ)と、政次は素直に感心しているが、どこか、安斎先生の理屈と言うより、酒が言わせている調子もある。

 伊藤次郎衛門は、青ざめた細面を、さらに青くして聞き入っている。

 袴の太腿の上に結んだ手も、血の気を失って、白い。

「拙者の心に、闇があると申されるのか」

「それは、伊藤どのしか知らぬことでしょう。しかし、医者としての見立てを言えば、一抹の闇が、ある」

 ここにいたっては、政次はいないも同然のよう。

 しかし、そのほうがいい、と、政次は身じろぎもしなかった。

「拙者は……」と言いかけて、次郎衛門は、声を詰まらせた。見ると目には、涙が溢れている。「おれは、女を、手にかけてなど、いないっ!」

「女、と申されたか」

「そうだ。萬屋の、妻の、美雪」

「なるほど、武士が匕首あいくちで、女の首を斬りつけるはずなどとは、わしも思いよらぬよ。して、次郎衛門どの……」と、安斎先生は、親しげに問いかける。「その涙は、なにゆえか」

「……」

「武家の屋敷に勤める侍が、老舗とはいえ、商家のご新造さんの名前で、涙を流されるのは、なにゆえかよ」

 政次の身体には、尖った鳥肌が立った。

 安斎先生の言葉は、静かなものだ。

 しかし何か、聞いていると、こちらの心が根っこから揺さぶられるような、恐ろしい力があるのだ。

「ご老人を、たしかな人と認めた上で、恥ずかしながら、申し上げる。

 美雪とは……たしかに、通じていた」と次郎衛門は言った。「たいせつに、思っていた」

 涙がぼろぼろとこぼれ、袴を濡らす。

「よくも、言ってくださった。……おいぼれの身とはいえ、御身おんみがまことの心は、この老いぼれにも、よくわかるよ」

「……しかし、聞けば、店の手代の手にかかったというではないか。おそらく、情があってのことだろう」

「うむうむ」

「それにまた、歌舞伎役者とも通じていたというではないか」

「そうか」

「またそのうえ、浅草あたりの絵師とも、つながりがあったと聞く」

「ううむ」

「そんな不実な女ではあったが、おれは、たいせつに思っていたのだ」

 次郎衛門は、流れ落ちる涙を隠そうともせず、泣きじゃくる。

 安斎先生は、しばし黙っていたが、もうかなり遠くまで行っていた、煮売り屋の娘を呼んだ。

「あと、二合ばかりでいいから、冷やのままでおくれ」

「はい」

 手持ち無沙汰だったのだろう娘は、素早く屋台に戻って、酒の支度をした。

「次郎衛門どの、受けてくれるか」

「いいえ。わたくしはもう、屋敷へ戻らなくては」

(『拙者、拙者』が『おれ』になり、やがてはしおらしく『わたくし』か。さむらいも、人なんだなあ)

 政次は、色男めいた次郎衛門を、黙ってじっと見ていた。

 懐紙で涙を拭った次郎衛門だが、赤くなった目は、すぐには戻らない。

 やってきた酒を一口やった安斎先生は、ふと居住まいを正したように背伸びをし、やおら、

「やくざものたちとは、どこで会ったんだね」と、訊ねた。

「やくざもの……」

「何人かのごろつきが、やってこなかったかね」

「……」

「お屋敷には、近寄れるようなやつらじゃないのだ。どこかで、からまれなかったかい」

「……それは、とくには、何も……」

「そうか。だったら何よりのこと。御身大切にしなされ」

 それだけ言うと、安斎先生は、口をつぐんだ。

 伊藤次郎衛門は、つと立ち上がり、傍らに抜いてあった大小を差すと、

「いまさら申すまでもないことながら……」

「ああ、わかっているよ。何もかも内聞で、とな」と、安斎先生は、にわかに高飛車な口調である。

「さよう……。なにとぞ」

 一瞬の間を置き、安斎先生を見下ろしていた次郎衛門は、足早に去って行った。

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