三十五
「伊藤どの、これで誰もいないも同然ですよ。お役目のあいだに出てこられたなら、さほど時間もありますまい」
安斎先生は、やわらかに切り出した。
「うむ。さよう」
「医術には、身体を治すとともに、心を癒すという働きもございましてな。
安斎先生は、とくとくと語る。
(なるほど、学のある人というのは、うまいことを言うなあ)と、政次は素直に感心しているが、どこか、安斎先生の理屈と言うより、酒が言わせている調子もある。
伊藤次郎衛門は、青ざめた細面を、さらに青くして聞き入っている。
袴の太腿の上に結んだ手も、血の気を失って、白い。
「拙者の心に、闇があると申されるのか」
「それは、伊藤どのしか知らぬことでしょう。しかし、医者としての見立てを言えば、一抹の闇が、ある」
ここにいたっては、政次はいないも同然のよう。
しかし、そのほうがいい、と、政次は身じろぎもしなかった。
「拙者は……」と言いかけて、次郎衛門は、声を詰まらせた。見ると目には、涙が溢れている。「おれは、女を、手にかけてなど、いないっ!」
「女、と申されたか」
「そうだ。萬屋の、妻の、美雪」
「なるほど、武士が
「……」
「武家の屋敷に勤める侍が、老舗とはいえ、商家のご新造さんの名前で、涙を流されるのは、なにゆえかよ」
政次の身体には、尖った鳥肌が立った。
安斎先生の言葉は、静かなものだ。
しかし何か、聞いていると、こちらの心が根っこから揺さぶられるような、恐ろしい力があるのだ。
「ご老人を、たしかな人と認めた上で、恥ずかしながら、申し上げる。
美雪とは……たしかに、通じていた」と次郎衛門は言った。「たいせつに、思っていた」
涙がぼろぼろとこぼれ、袴を濡らす。
「よくも、言ってくださった。……おいぼれの身とはいえ、
「……しかし、聞けば、店の手代の手にかかったというではないか。おそらく、情があってのことだろう」
「うむうむ」
「それにまた、歌舞伎役者とも通じていたというではないか」
「そうか」
「またそのうえ、浅草あたりの絵師とも、つながりがあったと聞く」
「ううむ」
「そんな不実な女ではあったが、おれは、たいせつに思っていたのだ」
次郎衛門は、流れ落ちる涙を隠そうともせず、泣きじゃくる。
安斎先生は、しばし黙っていたが、もうかなり遠くまで行っていた、煮売り屋の娘を呼んだ。
「あと、二合ばかりでいいから、冷やのままでおくれ」
「はい」
手持ち無沙汰だったのだろう娘は、素早く屋台に戻って、酒の支度をした。
「次郎衛門どの、受けてくれるか」
「いいえ。わたくしはもう、屋敷へ戻らなくては」
(『拙者、拙者』が『おれ』になり、やがてはしおらしく『わたくし』か。さむらいも、人なんだなあ)
政次は、色男めいた次郎衛門を、黙ってじっと見ていた。
懐紙で涙を拭った次郎衛門だが、赤くなった目は、すぐには戻らない。
やってきた酒を一口やった安斎先生は、ふと居住まいを正したように背伸びをし、やおら、
「やくざものたちとは、どこで会ったんだね」と、訊ねた。
「やくざもの……」
「何人かのごろつきが、やってこなかったかね」
「……」
「お屋敷には、近寄れるようなやつらじゃないのだ。どこかで、からまれなかったかい」
「……それは、とくには、何も……」
「そうか。だったら何よりのこと。御身大切にしなされ」
それだけ言うと、安斎先生は、口をつぐんだ。
伊藤次郎衛門は、つと立ち上がり、傍らに抜いてあった大小を差すと、
「いまさら申すまでもないことながら……」
「ああ、わかっているよ。何もかも内聞で、とな」と、安斎先生は、にわかに高飛車な口調である。
「さよう……。なにとぞ」
一瞬の間を置き、安斎先生を見下ろしていた次郎衛門は、足早に去って行った。
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