三十四

 猪牙舟は神楽河岸かぐらがしを左右に眺め、飯田橋から堀割を右へ曲がり、いよいよ神田川の大曲を越えた。

 政次にはもう地名もわからなかったが、行方に小さな橋が、いくつもかかっているのが見える。

「旦那……先生……」

 と船頭が声を掛けたとき、安斎先生は眠りこけていた。

(無理もねえや)と、政次は思う。

 安斎先生は、おそらく昨夜は、一睡もしていない。

 それに、この酒である。

「むむ……。ここは、どこだえ」

「小桜橋のあたりでさ。石切町あたりまで、上りますか」

「うむ」と安斎先生は身体を起こし、「そのあいだのどこか、あんばいのいいところで、とめておくれ」


 川岸からは急な坂が切り立っていた。

 安斎先生は地図も見ないで、さっさと歩いて行く。

 小さな神社があるあたりには、小さな屋台がぽつぽつと並んでいる。

 そのうちのひとつ、煮売り屋の前で、安斎先生は歩みを止めた。

 葭簀よしずの中に、ほかに客は、いない。

 安斎先生は、不意の客に戸惑っているような前掛け姿の小娘に、

「何か自慢のつまみと、酒をくだされ」

「へい、ただいま」

 小娘が取り次ぐまでもなく、店のおやじの耳には届いている。

「せんせい……」と、政次は心配になる。「召し上がりすぎじゃありませんか」

「居眠りのせいで、弁当を食いそびれたからな」

「いやぁ、御酒のことですよ」

「なんの。付け合わせのようなものだ」

 酒とともにすぐに出てきたのは、小鉢に盛られた、ぬたのようなもの。

「おお。茗荷竹みょうがたけか」

 こちらを伺っていおやじが、

「このあたりでの名物と申しますと、このようなものでございまして」

「うん、いい味だ。……政次も一口やれよ」

 言われるままにひとつまみしたが、苦いやら辛いやら、なんとも不思議な味がした。

「これは、何なんで」

「これか。これは《馬鹿》という野菜だ」

「ばか……」

「食い過ぎると、馬鹿になると言うのでな」

 安斎先生は「ははは」と笑い、おやじも「ははは」と、調子を合わせる。

「ときに、あるじよ。戸田様の下屋敷がここらと聞いていたのだが」

「へい。この坂をまっすぐ上って、いくらもありやせん」

「近くに寄ったゆえ、ある人を訪ねようと思ってきたのだが、あらかじめの報せをするいとまがなくてな。……どうだろう、店は忙しくなる時分だろうが、ひとつ使いを願えないだろうか」

「ええ、ええ。この通り、ひまをしておりますから、それはかまいませんので。娘をやらせましょう」

「そうかい。それは助かる。ならば……」

 と言いながら、安斎先生は懐から書状を出した。すでに閉じてあるところを見ると、昨夜のうちにでも書いてあったものだろう。矢立を取り出し、裏側の隅に、

「坂の下の茶屋」とだけ、書き添えた。 

 近寄ってきた娘に書状を手渡し、

「宛名にあるとおり、伊藤次郎衛門いとうじろえもんさんというお侍だ。門番に渡せば、おまえさんはすぐに帰ってきてよいからね」と優しく声をかけ、娘が押し戴いた書状を懐に挟むのを待って、その手にいくらかを握らせた。

「おとうちゃん」と、娘は握ったままの小さな拳を、おやじに見せる。

「これはどうも、ありがたいことでございます」と、おやじは頭を下げた。

 拳を開いた娘は「あっ」と小さな声を挙げ、おやじに駆け寄った。

 娘の手の中のものを見たおやじも、驚いた様子。

「旦那さま、これは過分な……」

「いや、いいのだいいのだ。……娘さんや、ちと、急いでくれ」

 おやじはそれから、妙にきびきびと動き、田楽やら佃煮やらを次々と運んでくる。

 安斎先生は、そしらぬ風で、舌鼓を打っている。


 四半刻しはんときも待たないうちに、娘は戻ってきた。

 安斎先生に会釈をし、

ふみは、すぐにお屋敷の中に届くそうです」

「そうかい。ご苦労さん」

 娘は、まるで慌ててでもいるように、これもかいがいしく働く。

 酒も、切らすことがない。

(せんせい、いったい娘に、いくらを握らせたんだろう)

 政次にはまだ、先生の目当てに、かいもく見当がつかないのであった。


 足早に坂道を降りてきたのは、背の高い、若い侍だった。

 あたりをきょろきょろ見回していたが、やがてここと見定めたらしく、大股で歩いてくる。

「千石安斎先生と申されるのは、こなたか」

 その白い顔は、いくらかこわばっているようだったが、さむらいの、普通の顔というものを、政次はよく知らない。

「いかにも、安斎はわしがこと。して、あなたさまは」

 安斎先生は悠々と、座ったままである。

「申し遅れた。大垣新田戸田家おおがきしんでんとだけ下屋敷詰しもやしきづめ、伊藤次郎衛門にてござる」

「伊藤どの、まあ、腰をおちつけなされ」

「しかし、かようなところでは……」

 次郎衛門はあたりを見回す。

 煮売りの親子は、さりげなく、目を背けている。

「なに、気のおけない、いい店です。酒も、うまい」

 次郎衛門はしばし青ざめた顔で立ち尽くしていたが、あきらめたように腰掛けた。

「文は読みました。しかし、安斎どのの真意がはかりかねる」

 言いながら、次郎衛門は、鋭い目を政次に向けている。

 その視線を捕らえた安斎先生は、

「この汚い男なら、私の杖代わり。無学のやからゆえ、気にめさるほどのほどのことはありませぬよ」

(ちぇっ。ほんとうのことだから仕方ねえが、せんせいも、言ってくれるぜ)

 と、政次は心のうちでふてくされたが、煮売りのおやじは、

「お客様がた、たいへん申し訳ないことでございますが、あっしはちと用がございまして、半刻ほど出かけてめえりやす。酒や肴は、この小娘に言いつけてくださいまし」と言うなり前掛けを外し、逃げていった。

 残された娘も、おやじとの呼吸か、少し離れたところに、向こうを向いて突っ立っている。

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