三十三

 猪牙舟は、遡ってきた大川を、こんどは下っていた。

 安斎先生は何事かを考えているようで、口数も少なく、ただ手酌でちびちびとやっているだけだったが、

「話はみな、聞こえたか」

「へぇ。とは言っても、途中からでしたが……」

「いや、なんの。おまえが来るのを待つあいだは、世間話みたいなもんさ」

「あの役者が、ここんとこ芝居に出ていないってことを、せんせいは、はなからご存じだったんで?」

「はったりだよ。しかし、様子を見ればわかるさ。あれだけ崩れた身なりに声では、端役はやくもつくまいよ」

「はぁ。なるほど……」

「ところで政次、女を尾行つけるのは、首尾良くいったのかい」

「ええ、ええ、それです。裏道をぐるぐるしていましたが、しまいには菓子屋に入って行きました」

「表からか、裏からか」

「裏口から、すうっと」

 政次は《甘泉堂》という屋号と、あたりの町並みを、先生に教えた。

 先生は懐から矢立やたてを出して、すらすらと何か書き留める。


 大川の流れは、激しいものではないが、それでも船頭にとっては上りよりも楽なようで、櫂の動きも緩やかだ。

「船頭さんや」

「へいっ、なんでしょう」

「打ち合わせの通り、神田川を上ることにするからね」

「へい。合点してやす」

「ひと働きになるから、柳橋まではゆっくり流すといい」

「お気づかい、かたじけなくでごぜえやす」

 船頭は頭に手をやって軽く会釈すると、櫂を上げてともに座り込み、煙草道具を取り出した。

「政次、おまえも、弁当を使うなら、今だぞ」

「へぇ」

 朝にしっかり食ったはずなのに、実はもう腹がぺこぺこだった。

 政次は千春が包んでくれた弁当をほどく。

 赤ん坊の頭ほどもあろうかという握り飯が二つ。たっぷりの味噌を塗った焼き目も、こんがりとうまそうだ。

(あああ。大川に浮かんだ舟の上で、こんな昼飯まで食えて、おれってやつは、しあわせだなあ)

 思わず顔が、ほころんでしまう。

 大口を開けて頬張っているのを、安斎先生が見ている。

「あっ。せんせいは、召し上がらないんで?」

「うむ。わしは、これがいいのだ」と、徳利を叩きながら、「政次よ、うまいか」

「へいっ。めっぽううまい」

「おまえは暢気のんきなやつだなあ」

「えっ。あ……か、かたじけないっ」

 飯粒が口から飛び出す。

「こらこら。汚いよ。……さっき見聞きしたことを、おまえはどう見立てるね? いや、食いながらでいい。ちょっと考えてみなさい」

 政次は、口を閉じたまま、「はい」とうなずいた。


 隠れ聞きしていた政次が、ちょっと肌に粟立あわだつようなものを感じたのは、やはりあの役者、万雀の腕にあった傷だ。はっきりとは見えなかったが、五六寸はありそうな赤くて真っ直ぐな痕は、やはり安斎先生の見立て通り、火箸でも当てたものに違いない。長さからしても、かすったようなものではなく、《じっくり》と当てられたようなものだ。

 安斎先生は、まるで政次に聞かせようとでもするように話していたが、やったのはたしかにあの、ごろつき三人に違いない。

 それにしても、何故――。

 安斎先生は、美雪の名前を出していた。

 匕首あいくちで刺されて死んだという、大店のおかみ。

 船宿での役者買いから始まって、しまいには店の奥にまで男をくわえ込んでいたというが、万雀もその一人であったには、違いない。

 あの夜、五郎や長助とともに、やつらを引っ張って帰ったとき、安斎先生は、

『萬屋もまた、汚い土産を持たせてくれたものだな』と言った。

 下っ引きの端くれらしい鮫と、その手下てかのもぐら、そして平佐――やつらの糸を引いているのが、萬屋であるのも、また間違いなさそうだ。

(おれの、人を見る目というのが、まだまだ甘いということを数のうちに入れるとして、だ)と、政次は考える。(あの、虫も殺せないような七兵衛さんが、何かの弾みでご新造の美雪さんを手にかけてしまったところまでは、その通りだとしてみよう――)

 七兵衛と血を分けた兄弟だという由兵衛が納得ずくで罪を被り、しかも先代四郎兵衛の威光で、奉行所への届けはもみ消し、追っ手も掛からないようにしてあるというなら、そのうえで、ごろつきまでやとって、ことをややこしくする意味が解せない。

(ああ。おれの知恵では、もう及ばねえ……)


 猪牙舟は柳橋のたもとから神田川に入った。

 船頭は力こぶを入れて漕ぐ。

 深く割られた川岸には草が萌え、ぽつぽつと花が咲いている。

 風情のあるところだろうが、政次の頭は、こんぐらがったまま。

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