三十二

 猪牙舟ちょきぶねは安斎先生と政次を乗せて、大川を遡っている。

 すでに高く上った日は強く照りつけてくるが、川面を渡る風が、なんとも心地よい。

「いい心持ちだなあ」と、安斎先生も、目を細める。「政次、おまえは生業なりわいがら、舟にはよく乗るのか」

「いいえ。河岸や川端でいつも目にはしておりますが、乗るのは初めてなんで」

「そうかそうか」

「猪牙がこんなに速ええものだとは……。なんだか、目が回りそうだ」

 櫂を操っていた船頭が、

「岸からじゃあ、この速さはわかるめえよ。ただ、漕ぐやつの、腕にもよるけどね」と、自慢気に、力こぶを叩いてみせる。

「今日は、長い働きになるだろうから、佐助さんも、うまく力をあんばいしておくれ」

「へい、先生。わかってやすって」

 深川を出た舟は、両国橋をくぐり抜け、左手にずらりと並んだ蔵を見ながら、大川の真ん中をぐいぐい上っていく。

「はじめはここらで、一度上がる予定だったが、五郎のおかげでひとつ用が済んだ」

「鳥越の、絵師の話ですね」

「うん。仕事が仕事だけに、版元にでも網をかけておけば、いずれ居所も知れるだろうが、もう要らぬことだろうよ」

「そいつがいったい、何をしやがったんで」

「さあなあ」

「さあなあって、せんせい……」

「からくりものが好きな政次の、楽しみを奪うのもな」

「……」

「それにしても、いい風情じゃないか。……なあ、政次よ、おまえの傍らにある、それ」

 安斎先生があごで示しているのは、政次が弁当とともに提げてきた、一升も入ろうかという通い徳利である。

「これですかい。……でも先生、これからひと働きじゃあ」

「いや、かまわん。ちょっと、こっちによこせ」

「いいのかなあ」

 安斎先生は、徳利の首に巻き付いた紐を、ひょいと指にかけ、腕の力を梃子てこにして、ぐいっと一口あおる。その仕草は、柄の悪い浪人者のようだ。

「むむむ。たまらん。どうだ、おまえも一口」

「いえ、どうか、かんべん願います。ただでさえ、こうして舟が揺れてるのに」

「お。船酔いに一番いいのが、この、酒というやつだぞ」

 先生は、もう一口。


 吾妻橋が見えてきた。

 そこから上がれば、浅草の観音様だ。

 猪牙舟は橋の下をくぐり、少しずつ左へと寄っていった。

 船頭が舟を寄せたのは、山谷堀が大川に注ぐ竹屋の渡しあたりだった。

「船頭さん、お疲れよ。一刻ひとときほどで戻るから、それまでどこでなりとも、休んでいておくれ。これはとりあえず、昼飯代だよ」

 安斎先生は船頭にひとにぎりの銭を渡し、身軽な動作で陸へ上がった。

 江戸の芝居小屋の、それも大きな三座が集まっているとは聞いていたが、猿若町はなるほど、思いがけない賑わいだった。

 安斎先生は、あてがあってのことやら、それともわざと政次を驚かそうとしてのことやら、目抜き通りを、ずんずん歩いて行く。

 何をしている人なのか知らないが、昼間からそぞろ歩いている人が多いのに、政次は驚いた。

(これゃあ、日本橋や両国広小路にもひけを取らない賑わいだぜ)

 安斎先生はふとある芝居小屋の前で足を止め、客を引いている小僧に、何事かを聞いている。

 客ではないと知って、はじめはつんと澄ましていた小僧も、小粒の銀を握らせると急に揉み手になり、

「なんならご案内いたしましょう」と、相好そうごうを崩す。

「小屋は、いいのかい」

「ええ、幕間まくあいまでには戻られましょう。ささ、こちらです」

 派手ななりをした小僧が案内するのは、なんとも込み入った一角だった。

 ありふれた長屋の木戸まで案内すると、小僧は、

「入って一番奥が、万雀さんの家です。おそらくはこの時刻、まだ寝ているか、それとも起きて、顔を洗っているころでございましょう」

 長屋は、政次の住む佐賀町のそれよりは、いささか間口が広いような部屋もあり、路地も乾いていて、どの部屋の戸の障子もきれいに張り替えられていた。

「役者というのも、こういう長屋に住んでいるので?」と政次は尋ねた。

「そうさ。三座の顔見せを張るのは、ごくひとにぎり。たいていは、陰間かげまばかりさ」

「かげま……」

 小僧が言った通り、一番奥の、塀に面したところが、万雀という役者の部屋らしかった。

 間口九尺の戸の、上半分が障子になっていて、そこに墨で、

「万」の文字がある。

 安斎先生は咳払いをひとつして、

「梅中屋の万雀さんは、こちらですかな」と、声をかけた。

 中ではごそごそと、明らかに人がいる気配がしたが、一呼吸置いて、

「はい。どちらさまでしょう」

 聞こえて来る声は、役者とも思われず、しわがれたようす。

「永代橋たもとの在、千石安斎と申す医者でございます」

「ちょっとお待ちを」

 心張り棒を外す音が聞こえ、戸が開いた。

 顔を出したのは、鼻筋の通った色白の顔に、小さな口をした、若い男である。

 びんが少しそそけ、無精髭が伸びているのを除けば、まずは美しい顔をしている。

「お医者さまが、何の御用で」と言いながら、派手な長襦袢の前をかき合わせる様子は、やはり、しろうとの身のこなしでは、ない。

「見ればお休みのところ、お芝居の役者さんには、ご迷惑でしたろう。いや、ちと伺いたいことがありましてな」

 万雀は戸口に立ちふさがるようにしていたが、奥の方でむくむくと動く影があるのを、政次は見逃さなかった。

 派手な赤縮緬の掻い巻きの中で身体を丸めているのは、どうやら、女だ。

「込み入った話でございましょうか」と、万雀は迷惑そうに眉根を寄せる。

「いいえいいえ。ここでうかがってもよろしいが、ただ、それは、万雀さまのご都合しだいというところでしょうかな」

 安斎先生は、いくらかきつい調子でそう言い切り、万雀のうしろを覗き込むような仕草をした。

「あ、あ、あ。わかった。わかりました。すぐに支度をしますゆえ、しょうしょうお待ちくださいますよう」

 言うなり万雀は、戸を閉め立てた。

 安斎先生は声をひそめ、

「中に女がいたろう」

「へぇ、見ました」

「髪のかたちで見る限り、娘ではない、どこかの女房だ。万雀が出てきた後で、すぐに出てくるはずさ。政次、おまえその井戸端にでも隠れていて、女を尾行つけろ。女の住まいがわかったら、それでいいから、とって返せ。わしは万雀を聖天宮しょうでんぐうに呼び出して、そこで話をさせる」

「しょうでんぐう……」

待乳山まつちやまと言えば、すぐわかるわえ。それより、このあたりは、道が入り組んでいるから、巻かれるなよ」

 うなずいた政次が、言われた通り、井戸の裏に隠れたところで、万雀が出てきた。

 後ろ手にぴしゃりと、戸を閉める。

 相変わらず髭も頭も伸びているが、役者らしい、派手な服装なりをしている。

 袂を両手の先で突っ張り、

「さて、どちらで話を伺いましょう」と、いくらか居丈高なのは、内心に何か、おののくところがあるのだろうか。

「団子屋でする話でもありませんからな。そぞろ、聖天さまへでも歩きましょうか」

 二人は長屋の木戸を出ていった。

 まもなく、万雀の部屋の戸が開き、女が白い顔を突き出して、あたりを見回した。

 誰もいないと見ると、素早く滑り出る。

 気取られぬように、しかし見失わないように、政次はその後を追った。

 女は巧みに路地を選び、すいすいと歩いて行く。

 やがて、通りへ面したところで一度立ち止まると、髪に手を当て、長着の裾を直す。そして気分も改めた様子で、辻を曲がった。

 人通りも少なくない道を、しゃなりしゃなりと行く様子は、たった今まで裏長屋で、役者と《うわき》をしていたとは見えない。

(とんだ女狐めぎつねだぜ)と、政次は思った。

 やがて女は通りを折れた。

 政次は追いすがる。

 女の姿がないので、一瞬はっとしたが、表に並ぶ店らの裏に面している、狭い路地に入ったのだった。

 小走りになった政次が路地の取っつきにたどり着くのと、女が裏口から家に入るのとが、同時だった。

(ひい、ふう、みいで、三番目だ。間違いねえ)

 政次は表の通りへ戻り、三軒目の店を数えた。

《甘泉堂》という菓子屋が、それだ。

 店先をひと目覗き込みたい気持ちに後ろ髪をひかれながら、政次はもときた道を戻った。

 女が遠回りをしたわけでもあるまいが、政次はすっかり道に迷ってしまった。

 道ばたで遊んでいる子供をつかまえ、

「ぼっちゃん、しょうでんぐうさまは、どっちだい?」と聞いた。

 子供は、

「聖天さまなら、こういって、こうだよ」と教えてくれたが、きょとんとしたその顔は、珍しい生き物でも見るようだ。

 なるほど、小高い山があり、そのふもとを大勢が行き交っている。

 参道の階段を上り下りする、少なくない参詣の客をかきわけるように、政次は駆け上がった。

 境内もまた、思い思いに散策する人で溢れている。

(なるほど、まぎれてしまうには、この方がいいや)

 見ると本殿に向かって左手、倉のような建物に隠れるようにして、安斎先生と万雀の姿。

 政次は大きく回り込んで、近づいていった。


 万雀の、押し殺してはいるが、根の高い声がする。

「……あなたはあたしを、脅迫ゆすろうというのかい?」

「そんなことは、こればかりも言っておらん。あの事件ことがあったとき、どこにいなさったかと聞いているんだ」と、安斎先生の声もまた、押し殺されてはいるが、厳しい。

こよみをみなくちゃわからないが、小屋に出ていたよ」

「では、そのことを、わしから座長に裏を取っていいんだな?」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。それは困る」

「どうして困る」

「あたしにも、いろいろ都合があるのさ」

「なるほど。おまえさんが芝居に上がっていたのは本当としよう。して、小屋がはねた後はどうしたね。まだ暮れもしない七つ時から、長屋で寝転んでいたわけでもあるまい」

「それはそうさ。あたしらには、しろうとにはわからない仕事があるからね」

「どこかのお大尽の座敷にでも、顔を出していたというところか」

「ああ。まあ、そんなところだ」

「して、その夜はどうした」

「あんまり覚えていないよ」

 政次は倉の梯子はしごの影に身を隠していたのだが、安斎先生はそれに気づいたようだ。ほんのかすかに、目が合った。

「いや、実はな……」と、安斎先生が切り出す。「おぬしがここ何月も芝居に出ておらぬということは、とうに調べてあるのだ」

「……」

「それにしては、暮らしにも不自由がない様子」

「だから、言ったろう。ごひいきの筋が、いろいろあるのだよ」

「萬屋の美雪も、それだったというわけだな」

「ああ。そう思うなら思ってくれていい」

「ときにおぬしな……」と、安斎先生は、襟元をかき合わせていた万雀の腕を取った。「この傷は、どうしたものだ」

「えっ……」と万雀は腕を引っ込めようとするが、安斎先生にしっかり握られている。「ああ、猫にひっかかれたんだよ」

「わしは医者だよ。猫の爪痕か、焼けた火鉢でこすられた痕かくらいは、すぐにわかる」

「……」

「ごろつきどもに抑えつけられ、『こんどは腕じゃすまねえぞ』のひとつくらい、言われたのだろう」

「……あんた、何者なんだい」

 万雀の声は、震えている。

「わしは、千石安斎という医者さ。火傷やけどにいい薬も持っているよ。おぬしはそうしていても、役者には違いなかろう。もしこんど、商売道具の顔に、焼きごてでも当てられるような羽目になったら、いつでも療養所を訪ねてくるといい……。さて、ひまを取らせたな」

「ちょ、ちょっと待った。やつらがまた来るとでも言うのかい」

「さあ、それは知らぬよ」

 安斎先生はそう言い捨てると、境内に戻って、参道を降りはじめた。

 万雀はまだその場に立ち尽くしている。

 政次は人混みに紛れるように、安斎先生の後を追った。

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