三十一

「きゃっ」という悲鳴で、政次は目が覚めた。

 あわてて板戸を開いてみると、両手を縮こまらせた千春が、土間に立ち尽くしている。

 無理もない、湿布を貼られた半脱ぎの男が二人、板の間で大の字になっているのだ。

「千春さん」

「ま、政次さん。これは……」

心配しんぺえはいらねえよ。ゆうべ運ばれて来た怪我人だ。薬でようく眠ってる」

「先生は」

「あ、そう言やあ」と、政次は先生の寝床があるはずの場所を振り返ったが、もぬけの空。「おいら、先に眠っちまったもんで……。ときに、千春さん、いま何刻ですか」

「五つと半」

「せんせい、どこへ行っちゃったんだろう」

「きっと、お湯でしょう」

「だといいんだけど」

「何か……あったのですか?」

「いやあ、何か、というか……」と、政次は頭を掻く。「それにしても、これは目障りでいけないね」政次は板の間に立っていき、鮫と平佐を、板の間に隅に引きずって行った。

「まあ。怪我人に、手荒なことを」

「いや、こいつらは、このぐらいでいいんで。……千春さん、こもかなんかが、ありますかね」

「ええ」と千春は土間を出ていった。

 ごろつきどもは、二人とも、まだ高いびきだ。

 千春が抱えてきた菰には、所々、血かなんかの染みがあった。

(へへっ。こいつらには、ちょうどいいあんばいだ)

 政次は男二人を覆って隠し、両手をぱんぱんとはたいた。

「今、お茶を淹れましょう」

「へぇ。かたじけない。それと、できたら、たらいに水をいただけたら」

 朝の光で見ると、政次の両足も、埃まみれだったのだ。

 千春が汲んできてくれた水で足を洗うと、すっかり目が覚めた。

(困ったな。せんせいがいないんじゃ、出ていくわけにも行かねえし……。そういや『明日は遠出をするぞ』とか何とか、おっしゃっていたが……)

 土間でかしこまっていた政次だったが、千春に促され、先生の部屋で、茶をもらうことになった。

 濃くて、渋くて、そして甘い煎茶が、身体に染み入る。

 千春はすぐに朝餉の支度に取りかかったようで、政次は手持ち無沙汰。

 何か勝手に触ってもいい読み物など無いかなとあたりを見回すと、明かり取りの障子の下、先生の机の上に、文鎮を載せた紙があった。

 政次は這っていき、手を触れずに目を寄せる。


  鳥越とりごえ 絵師 天竺堂雲才てんじくどううんさい

  猿若町さるわかちょう 役者 梅中屋中村万雀うめなかやなかむらまんじゃく

  小日向こひなた 戸田家下屋敷内 伊藤次郎衛門いとうじろえもん

  ほか


(なんだ、これは?)と、政次は前のめりになる。

 筆あとはまだ新しい。だとすると、鮫の懐にあった――先生が写していたあの紙の中身に違いない。

 しかし、生業なりわいも身分もばらばらなこの三名の名は、何を表しているのか。

 政次は首を傾げたが、その時ふと、二枚目があるのに気づいた。

 そっと文鎮をどけて、一枚目をめくると、大きな文字で――。


  正次め見たな


(ややや。こりゃ、いけねえっ)と額に手をやる政次。


「あら、先生、お帰りなさいまし」と千春の声がした。

「いやあ、朝飯前の、いい湯だった。政次は、おるか」

「はい、先生のお部屋に……」

 政次はあわてて紙を戻し、文鎮を載せ、部屋の真ん中にすっ飛んで戻る。

 戸板が開いて先生が顔を出した。

「せんせい、おはようございます」

「うん、おはよう。よく寝ていたようだったから、湯には誘わなかったぞ」

 と、安斎先生は、まだ汗の浮く額を、手拭いで叩いている。

 政次の額にも、冷や汗が浮かんだ。

「ん。強い風でも、吹いたか」

「えっ」

 うろたえながら横目で見ると、真っ直ぐだったはずの文鎮が、斜めざま。

「せんせい、おいら、悪気はなかったんで。ごめんなさい」

「はっはっは」と、安斎先生は楽しそうに笑った。


 千春が朝餉あさげを給仕してくれた。

「さあ、おかわりをどうぞ」

「へぇ。ありがとうござんす」

 うまい味噌汁と香の物で、いくらでも飯が食える。

 安斎先生は、箸を置き、

「やがて五郎が戻るだろう。そうしたら、出かけよう。まあ、ゆっくり食え」

「へぇ。……あの、五郎さんは、もう働きなので?」

「うん。少し用事を頼んだのだ。……あ、千春や、弁当をこしらえておいてくれ。焼き味噌でもあれば、じゅうぶんだ。ただし、若い衆には、とりわけでっかい握り飯をな」

 政次は赤面して、むせた。


 庭の犬走りに、砂利を踏む音が聞こえた。

 縁側に面した障子に人影がさす。

「五郎か。ごくろうだった」

 すっと障子が開き、いつものように深く手拭いをかぶった五郎。

「まあ、上がれ」

「いえ、足がしょうしょう泥なもので、ここで」

「で、鳥越は、どうだったかな」

「へぇ。つまりから申し上げますと、おりませんでした」

「ほう」

「それが、出かけているというのではないんで。道具一式を抱えて、引っ越したそうでございます」

 鳥越――

 あの紙に書いてあった、絵師の住まいか。

「近在で、話は聞けたか」

 五郎はふと顔を上げ、安斎先生と政次の顔を見比べるようにしたが、

「近所の評判は、悪くなく、たいへんおとなしい、やさ男だったそうでございます。店賃を滞らせることもなく、引っ越しの挨拶だといって、長屋の皆に、手拭いを配って出たそうです。ただし、その行方となると、知っている者はおりませんでしたが……」

「何か気になることがあるようだな」

「数日も前に、見慣れない男どもと帰ってきたことがあり、夜中まで何事かを話し込んでいたそうで。家移りは、そのすぐ後だったそうでございます」

「その男らの人相風体は、なに、なわけだな」

「いかにもあの三人に、間違いなかろうと思われます」

「ふうむ」

 安斎先生は、宙を見上げながら、あごひげをしごいた。

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