二十九

 夜更けである。

 安斎先生が、乳鉢の中で棒を摺り回しながら、長助に、何事かを申しつけた。

 はいはいと、素直にうなずく長助に手渡したのは、損料屋にでも払う追い金か、それとも宿への支払いか。

 政次は着たきりだった肌襦袢を脱ごうとするが、長助が苦笑いで押しとどめる。

(そういや、平佐に斬られてしまっているんだ)

 五郎は枡屋の紋が入った提灯を改め、これも、長助に返す。

「では、みなさま。あたしは今夜は、ここのところで」と立ち上がる長助は、いつの間に整えたものか、服装なりに少しの乱れもない。

「長助さん、あらためて、いっぱいやろうな」と、安斎先生。

「はい、先生。お先に……」

 と、言うなりもう、姿が見えなくなる。

「五郎も、もう、休めよ」

「はい。ありがとうございます。で、連中は……」

 と、言いかけた時、長助が鮫を引っ張ってきて、

「今夜さいごの仕事でございます」と、土間に据え置いた。

 気づくと、五郎の姿がなく、あれよと思う間もなく、平佐を連れてきて、

「大きなやつは、ここに」と、これも土間に置く。

 安斎先生は、乳鉢を目の前に、

「政次、湯を沸かしてこい」と命じた。


 台所で、へっついのそばに、やにばんでいる小さな火鉢を見つけ、手探りで火打ちを探し、なんとか火を点けた。

 水瓶みずがめから鉄瓶てつびんに水を移し、載せる。

(それにしても……)と、思う。(あの若旦那の七兵衛さんが、女房を手にかけた下手人で、それをかぶったのが、実の弟であるという由兵衛――。由兵衛は、いとまを告げる手紙を、おし津に託し、で、おし津は、あの朝から消えた――と)

 見る鍋は沸かない、というが、目の前の鉄瓶は、ちんとも言わない。

(あの朝――おし津さんの部屋が開いていたあの朝の、前の夜に、殺しがあったというのか。あの、大人しげな七兵衛は手を拭い、先代の旦那の四郎兵衛は口を拭い、由兵衛に引導を渡した?――いや、どうにも、間尺に合わない……)

 政次にはどうにも、

「すかっ」と来ないのである。

 なにもかも、もじゃもじゃしていて、腑に落ちないのだ。

(これが、せんせいの言う、真実まことのありさまか……)とも、思われる。

 炭が、かっかとおこり、鉄瓶が揺らぎだす。


 政次は沸いた鉄瓶を持ち、足もとに気を配りながら、診療所へ戻った。

 長助も五郎も、すでに姿を消していて、灯りを増した板の間には、三人のごろつきが、店先の魚のように、行儀良く並んでいる。

 安斎先生は、木綿切れに膏薬をたっぷりと塗りつけ、それぞれに湿布を施しているようす。

「湯は沸いたか」と、背中越しに、政次に声をかける。

「へぇ。ちんちんと、熱く沸いています」

「では、乳鉢の中の粉にな、まんべんなく、よくかけ回してくれ」と言いながら、平佐の、折れた肩を伸ばしてやっている。「あああ、そうやって身体をねじるな。少しは辛抱しろ」

 子供にでも言いつけるように、優しい口調である。

 もぐらは伸びたままだったが、鮫と平佐はそれぞれに痛みながら、ふうふうと荒い息をしている。

「ほれ、おのおの、空いている方の手で茶碗をつかんでな、これを回し飲みするがよい。熱いからな、気をつけてな。飲み過ぎるなよ。二人で等しく分けるのだぞ」

 ごろつきどもは身体を起こし、我先にと争うようにして、薬を口に含んだ。

 相当に苦いのだろう。悪人面が、いずれも、くしゃくしゃになっている。

 薬を飲み干してまた横になった二人は、そろって大いびきを、かき始めた。

 安斎先生はにんまりしながら、

「痛み止めは、すなわち痺れ薬。それにたっぷり眠り薬を調合してやったわ。これで、明日の夜までは、どこをどうつねっても起きないだろう」

「もぐらの野郎はどうするんで」

「軽く後手に紐でもかけておけ。なに、もぞもぞすれば、ほどけるくらいでかまわん」

 政次が言われた通りにする間、安斎先生は鮫と平佐の身体の下でくしゃくしゃになっていた着物を改めた。それぞれの財布を改めながら、

「ごろつきのくせに、ずいぶん持っている。いや、ごろつきだからだな」と言い、銅の銭だけ残して、金銀を取り上げた。

(せんせい、追いはぎみたいだな)と思った政次の心を見透かすように、

「医者としての、まっとうな診療代だ」と言って笑った。

 その安斎先生の手が、ふと止まる。

 鮫の懐から、折りたたまれた紙が出てきたのだ。

 開いて目を落としている顔が、鋭くなる。

「これは、面白いものが出てきたぞ」と、呟いている。

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