二十六
商売は三代目と番頭に任せてあると言ったはずなのに、四郎兵衛は、見本の品を置いていけと、しつこくこだわった。
「帰り道中での商いもございますので、ご勘弁くださいますよう」と、五郎が、かたくなに断り、何とかすべてを長持に納めることができた。
提灯のろうそくに火をもらい、政次一行は、萬屋を後にした。
先を行くのは、五郎。政次の後を、長助がついてくる。
まっすぐ下れば、安斎先生の療養所だが、もちろんのように、その道は、取らない。
「五郎……いや、五郎兵衛さん」と、政次が言いかけるのへ、背中に回した手を、ひらひらと振る。
(いまは、なにもしゃべるな、と言うことか)
政次は口を閉じ、身を反らせて、歩いた。
両国の橋を渡りきり、宿の枡屋までは、あといくらもない。
後から長助が、鼻歌でも歌うような調子で、
「橋の太鼓の上に、灯りも持たない三人組……」と囁いた。
五郎が、ゆっくりとうなずきながら、小声で、
「橋の番所を抜けたら、右へ入ります。道を逸れて、通りと川の間の堤へ、上がりますぜ」と、渋い声で、言った。
素早い動きで二人を追い越したのは、長助。
堤に駆け上がり、身を屈めて、背中の荷を下ろす。
政次はそれを追いかけ、同じく、身を屈める。
しんがりは、五郎。いつの間にか提灯を消し、小走りに上がってくる。
「まず、身軽に、なんなせえ」と、五郎が言うより早く、長助が夏草の上に、風呂敷を広げている。
政次は紙羽織を脱ぎ、帯を解いて小袖とちりめん襦袢を脱いで、むしり取るように足袋を脱いで、風呂敷の上に放り出す。雪駄の裏を合わせて地面に置き、半衣の肌襦袢に裸足になると、なんともすっとした気分。
五郎は落ち着いた様子で長衣の裾をはしょって帯に織り込むと、どこからともなく鉄扇を取り出していた。
「政次さん、ほら」と、長助が呼ぶ。
ほんの今まで荷を担いでいた四尺の棒を投げてよこす。
六尺の天秤棒と同じくらいの重さのそれは、硬い木で出来ており、角がきっと立った頼もしい得物。
「萬屋が、
「話は、後で。……おそらくは、あの三人組でしょう。十手の鮫は、おれがやる。もぐらは、長助が。政次さん、あんたは平佐を、押さえつけてください。刃物には気をつけなすって」
三人、土手の上にうずくまるが、下からはその輪郭は、月に浮かぶだろう。
「おい」と、暗闇から呼ばわったのは、鮫の声だ。「そっちは、おめえらの宿とは違うだろう。降りて来た方が、身のためだぜ」
「……」
「やいやいやい」と、わめいているのは、あの、もぐら、だ。「こっちから、行くぜ」と言いながら、まだ三人の息は合っていない様子。
政次は角張った棒を持てあまし、肩にかついでみた。
重心が肩に乗ると、ふと、棒の重さがなくなったようで、身体の一部のように感じた。
(おいらは、何をやっているのだ)と思うと、何だか笑い出したいような心持ちになった。
ざっと土を踏む音がして、土手を駆け上がって来たのは、もぐらだろう。
両手を前に掲げて、素早く這い上がってくる。
長助が、さっと前に回った。
じゅうぶんに引きつけてから、もぐらの顎を目がけて、蹴り上げる。
もぐらは身をかわし、ぐんと身体を伸ばして、長助に組み付いてくる。
長助は手首をつかまれた。
もぐらは、してやったりと、身体を大きく回して、長助の腕をひねり上げる。
「ふんっ!」と、もぐらの気合いが入る。
政次が「あっ」と思った時、長助は肩を庇って、放り投げられるかっこう。
(これはいけねえ)と、政次は目をつぶった。
「ぐぐぐ」と、こもった息づかいが聞こえる。
肩の棒を握りしめ、加勢に立ち上がろうとした政次を押しとどめたのは、五郎である。
見ると、もぐらは地面に膝を突き、身を反らせている。その後には、長助。右の腕がもぐらの喉に食い込んでいて、左手がそれをがっしりと固めている。
もぐらは両手を後にばたばたさせて、長助の身体をなんとか掴もうとあがいていたが、長助が両の腕にぐっと力を込めると、動きが、止まった。
長助が、その身体を土手の上に引っ張り上げる。手をぱっと離すと、もぐらのからだは、しなびた茄子のように、草の上に崩れ落ちた。
じりじりと、土手を上ってきたのは、鮫である。
「こちとら十手を預かる身だ。神妙にしろぃ」
もぐらが倒されたのを知らないわけではなかろうに、余裕の口調である。
五郎は手首を返して鉄扇を手の内に隠し、身を屈めて降りて行く。
(なるほど、喧嘩の時には、上にいるのが有利なのだな)と、政次はいまさらながら、思う。
それでも鮫は、最後の一歩で勢いを付けて蹴り上がり、中段に構えた十手で,
真っ向から五郎の頭を狙ってきた。
五郎は草に滑ったかたちで、みずから尻餅をつくと、鉄扇を握り込んだ拳で、鮫の脇腹を殴りつける。
鮫は殴られるままに転がったが、すぐに起き直り、十手を高く掲げて、本気で打ちにかかる。
びゅんと振り下ろされた十手は、五郎の鬢をかすめて、草むらに突き刺さった。当たっていれば、相当の、打撃である。
素早く引く鮫の手首を、五郎の鉄扇が、激しく打つ。
「うがあっ!」という悲鳴と、生の骨が折れる音。
五郎は、容赦なく鮫の背骨を膝で抑えている。
長助が何かをさっと投げ、身を起こした五郎が、受け取る。
縄である。
振り返ると、もぐらはすでに後ろ手に縛られ、よく動く口には、手拭いが噛まされている。
五郎もまた、手際よく鮫を縛り上げている。
土手の下には、ひときわ大柄な影があった。
平佐。
鼻つまみのごろつきでありながら、なぜか、岡っ引きの手下を務めているやつ。
からん、と乾いた音がしたのは、
政次は四尺棒を担いだまま、一歩降りて、足場のいいところを裸足で探る。
硬い棒は、使いようによっては強い武器になるのだろうが、悔しいが政次、剣術も棒術も、まるで心得がない。
「降りてこい」と、どすを効かせた声で、平佐が。
もぐらと鮫のありさまを見て、坂の下手では不利になることを知ったのだろう。
肩に載せていた棒を、長く構え直して、政次はゆっくりと土手を降りて行く。
(こいつ、ほんとうにおれを、刺すつもりだろうか)
脅しならまだよいが、血を見ることになれば、平佐も他の二人も、ただではすまないはず。
平佐は足を広げて立ち、だらりと両手を下げている。
刃物はやはり、匕首だった。刃渡りは一尺ほど。たいした
じゅうぶんに間合いを取った政次に向かって、平佐は、
「川っぷちでの刃傷沙汰も、洒落にはならねえ。二人のいましめを解いて返せば、おれたちは消えてやるぜ」
「話し合いをしたいってのか? それにしちゃ、光り物を抜くのが早いじゃねえか」と、政次も負けずに言い返す。
「やるとなりゃあ、棒手振なんぞはいちころだ。大川のごみにしてやらあ」
平佐は手首を返して、匕首の切っ先をひらひらさせる。
「寝ぼけたごろつきの
身体を開いてかわしたが、何かがひっかかった様子。
後に下がりながら見ると、肌襦袢の懐あたりが、切り裂かれている。
(野郎、本気で狙ったか)と、体中に鳥肌が立ち、頭がきいんとした。
平佐は突き出した右手に匕首を構え、腰を落としてじりじりと迫ってくる。
政次はその手を目がけて、四尺棒を叩きつけた。
空振り。
棒の重さに、身体が前にのめり、腰が引けて、なんともみじめな格好。
「へへへ。商売道具の棒きれよりか、二尺ばかり短いってか」と、あざける平佐は、さらに間合いを詰めてくる。
政次の後は、木立だ。くるりと回り込んで、楯にしたいところだが、そんな余裕もない。
「どうだ。話合わねえか。今度はあばらの一本も、かならずもらうぜ」
「てやんでい。まっぴらごめんだ」
政次は長く持っていた四尺の棒の真ん中を握り直し、肩に据える。
重さが消えて、なんともしっくり来る。
「ははは。棒手振流免許皆伝かい、香魚屋の若旦那さんよ」
さらにじりっと寄られ、後に下がったとき、かかとが木の根に取られた。
(いけねえっ)と思う間もなく、後ざまに倒れる。
平佐が突っ込んで来るのと、政次が肩の棒を前に投げ出したのが、同時。
棒の端、硬く尖ったところが、もろに平佐のみぞおちを突いた。
「うっ」と呻いて腹を押さえ、前屈みになった平佐は、匕首を放り出し、政次にのしかかってきた。
仰向けの政次に馬乗りになると、
「このやろう」と言いながら、両手で首を絞めてくる。
指をこじ入れてなんとか逃れようとするが、平佐の力は、強い。
(刺されるんならまだしも、こんな野郎の素手にかかって、おれは……逝くのか)と感じながら、政次は固く閉じたまぶたの中で白目をむき、脚は蛙のようにばたばたと足掻くだけ。(ああ……なさけねえや)
と、びゅんと何かが風を切り、薪を割るような音がした。
政次を締め付けていた手が瞬時に弛み、自らはじけ飛ぶように、平佐が横へ転がる。
「うおおおお」と、恥も外聞もないような声を立てながら転げ回る平佐は、右の肩を押さえている。
見上げると、鉄扇の房を指にひっかけた五郎が、平然と立っていた。
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