二十五

 政次たちの正面に座しているのは、短く肥えた身体に、大きな頭を据えた、初老の男だった。

 萬屋四郎兵衛である。

 その顔には、長年の商売で身につけた薄い愛想笑いと、それでは覆い隠せない狡猾さ、さらには、それらに増して、疲弊の色があった。

「はるばると上州からお越しとのこと、この七兵衛から伺いました。ご苦労様なことでございます」と、丁寧に、手を突く。「もはや隠居の身ではございますが、新たなお取引に関しては、あたくしの先代よりの、当家の決まり事がございまして、お手数なことでございます」

「いえ、急な勝手ごとを申し上げたのは、手前どもでございますから。お忙しい中で、品をご覧いただけただけでも、恐縮なことでございます」

 如才ない挨拶をするのは、五郎である。

「お品はけっこうなものだと、うかがいました。桐生ははたどころ、江戸でも評判の品でございます。今後よろしくのお付き合いを願いとうございます」

「御先代様にも、粗末な品をご覧いただいたほうがよろしいかと」

 と、そつなく五郎が返したが、

「いえ。商いはすべて、この七兵衛以下、番頭と手代に任せておりますゆえ。もうろく隠居の出番ではございません」

「何をおっしゃいますか。……では、手前どもと、お取引、いただくお許しを得たということで、よろしゅうございますか」

 五郎はまるで、本気の商談を進めているような具合である。

 見たところ、少なくとも表向きはまっとうで誠意のある商人を、こういう騙しにかけていいものか――と、政次の襦袢は、すっかり汗染みている。

「はい」と、四郎兵衛は商人らしく手もみをするが、伏し目がちの目は、腫れぼったく、生気がない。「細かな条件につきましては、追々詰めさせていただくとして、まずは請書うけしょをいただきとう存じます」

「請書……」と、これは、五郎も計算違いだったに違いない。

「堅苦しいものではございません。手前どもに、雛形がありますゆえ、ご一読の上、ご主人様の、ご署名を頂戴できれば、ということでございます」

 政次は、息を飲んだ。

 七兵衛が何か合図をし、手代が書状を差し出す。

 震えを抑えながら、政次は薄い巻紙を手にとって、ぱっと開いた。

 なるほど、版木で印刷したものではあるまいが、すでに請書なるものが書き上がっている。

 草双紙の文字よりはよほど読みにくいものだが、政次はざっと目を通した。

 桐生香魚屋は、萬屋に、あたうかぎりの納期で良品を卸すこと。個々の取引に関しては、時の状況をかんがみて、双方に利のある話し合いをすること。万が一、間違いがあった際には、双方が互いに誠意をもって話し合うこと――といった内容が記されているかと思われた。

 政次は、ゆったりとした動作で、五郎にそれを手渡す。

 五郎はすばやく一読し、

「ありがたいことでございます。つつしんで、お請けさせていただきとうございます」と一礼した。

 手代は、すでに墨の摺ってある硯と、毛の揃った筆が載った硯箱を、政次に差し出す。

(困ったことになっちまった)と、政次は天をも仰ぎたい気持ち。

 こほん、と息を整えて前を見ると、四郎兵衛と目が合った。

 笑みと媚を含んでいて、いささか狡賢く、そしてどんよりとした、赤い眼である。

「では」と、政次は低く言い、震える手で、筆を執った。

 筆に墨を含ませ、先を整える。

 紙の最後の空白に、

「政」と、ゆっくり書いた。

 これくらいが、ぎりぎりのところである。

 座敷の中に、妙な沈黙。

(ええい、ままよ!)と、政次は、名前一文字の下に、ひとふで描きで、魚の絵を描いた。

 最後に、目玉を、ぽつんと入れる。

「おお」と、低い声を漏らしたのは、四郎兵衛である。「お国では、魚はよくに、獲れますか」

 政次は、筆を置きながら、

「そろそろ、鮎には、良い季節でございます」と、何とか、言うことができた。


 請書を手にした四郎兵衛は、それをしばし眺めながら、

「さあ、香魚屋さまから請書を頂戴した限りは、おまえの仕事だよ。しっかりおやり」と、横にいる七兵衛に渡した。

 四郎兵衛は、どことなく何かをいぶかっている様子と、取れないことも、ない。

 妙な、間があった。

 五郎が、

「あの……萬屋さま、こちらから、請書は入れさせていただきましたが、その……請書の受け取りと申しますか、発注書のようなものは、頂戴できますのでしょうか」と、言った。

 七兵衛は、政次の署名をじっと見ていたが、虚を突かれたように、はっとして、

「はい、後先になりまして申しわけございません。すぐに用意いたします」と、これも雛形がすでにあるようで、手代が素早く紙を差し出す。

 七兵衛は筆を執り、達筆な署名をする。

 政次は、じっと見ていたが、

(これが、女房を手にかけた男か……)という思いを、拭えない。(それにしても、あの由兵衛と、これほどまでに瓜二つ、とは)

 七兵衛は、手代に印と肉を持ってこさせ、名前の下に、丁寧に、捺した。

「では、これにて。今後ともよろしくご交誼を」と、政次に差し出す。

 政次はそれを、五郎に押しやりながら、

「萬屋さま、たいへん失礼なことでございますが……」と言いかけた。

「……」

「番頭様のお名前は、なんとおっしゃいますか」

「……手前どもの番頭は……由兵衛と申す者でございます」

「あたくしの思い違いでしたらば、たいへん失礼とは存じますが、その由兵衛さん、ご主人さまと、よく似ておいでの方では……」

 空気が、凍り付いた。

「なぜゆえ、そのような……」と、七兵衛が言いかけるのに、四郎兵衛が割って入り、

「商人などは、同じような服装に同じような頭をしておりますのでな。して、香魚屋様は、由兵衛をご存じで」

「いえ……」と言いかけて、政次は、腹を決めた。「まあ、その……実は……」

 四郎兵衛と七兵衛は、膝の上で拳を固めている。

「どちらかで、ご無礼でもしておりますまいな」と、四郎兵衛。

「いえ……」と、政次は言ったきり、次が続かない。いっそ、すべてをぶちまけて、ことをはっきりさせたい心持ちにすら、なる。

 助け船を出したのは、これも五郎で、

「こちらさまのお店のことを伺いましたのも……」とまで言いかけ、政次を見上げている様子。

「いやあ、へへへ。吉原なかでのことです」と、政次は大はったり。「あるうちで、きれいに遊ばれている旦那さまがいらしって、ふとした弾みでお名前を伺ったところ、それが由兵衛さまということでございまして」

「ああ、ああ。そういうことでございましたか」と、四郎兵衛があいまい笑い。「伎楼で店の名を出すなど、不調法なことでございました」と手をつく。

「いいえ。お名前を伺ったのは、こちらです。お戻りになられましたらば、香魚屋の政次がと、くれぐれもよろしくお伝えくださいますよう」

「はい、それはもう、たしかに、承りましてございます」

 このへんが、汐。

 政次のにわか芝居も、もはや限界である。

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