二十四
通された座敷には、まだなにか、すうっと、線香の匂いがした。
(ふつうなら、まずは仏様を拝ませていただいて、ってとこなんだろうな)とも思うが、政次らの見立ては、旅の商人。なにも知らない、ふりをする。
萬屋の手代は、丁寧に膝をそろえて手を突き、
「やがて、
女中が茶を持ってやってきて、小僧が煙草盆を勧める。
やがて、襖がそっと開いて、細身の男が現れた。こうした大きな店の旦那とも思えない、謙虚な仕草だ。
「たいへんお待たせをいたしました。萬屋七兵衛と申します」
そう言って上げた面を見て、政次は驚いた。
そこにいるのは、あの行き倒れ、遠く旅へ出ると言ってあの雨の中をでかけた、由兵衛に瓜二つだったのだ。
いや、もちろん、本人ではない。由兵衛よりは、いくらか歳は取っているようだ。ただ、その静かなもの言いと、どことなく品のあるような様子。
(こ、これはどういうことだ)
政次の顔は、よほど間が抜けていたのだろう、七兵衛がむしろ、けげんな顔をして、
「このような若輩もので、驚かれましたでしょうか」
「い、いいえ。き、桐生から参りました、香魚屋政次半兵衛と申します」と、挨拶をするのが精一杯だった。「このたびは、き、急なことにて、たいへん失礼いたします」
「いいえ、こちらこそ。御達筆なお便りをいただきましたものですから、すぐにとお返事を差し上げたしだいでございます。文によれば、すぐにもお国へ戻られるとのこと。お忙しいことはたいへんけっこうでございますな」
如才のない言葉がよどみなく流れる。
(これが、自分の女房を手にかけたやつか……)と、思いながら、政次は七兵衛をしげしげと見た。
七兵衛は、きれいに剃り上げた頭に、髷や
「このような商いでございますが、夕の部にも、まだまだお客様が店先においでになります。人手も少ない店ゆえ、あたくしもまだ、丁場へ出なくてはまいりません、という次第で……その、さっそくながら、お品を拝見できれば、と」
いんぎんな口調で七兵衛が言うのは、はなから田舎者を馬鹿にしている口調でもない。
政次がふと目をやると、五郎が一寸ほど前へ膝を乗り出し、
「旅の途中のことでもあり、お恥ずかしいようなものしかございませんが、こちらの旦那様には、そのあたり、推し量っていただきとう存じます」と流暢に挨拶し、後にかしこまっている長助を見る。
長助は長持の蓋を開け、いくつかの反物や端布を取り出して、七兵衛の前に並べていく。
七兵衛はかるく会釈をすると、慣れた手つきで反物を広げ、指先でそれを確かめている。
「なかなかに手のかかった錦でございますな……」
政次は冷や汗がどっと出るが、鷹揚に構えて、
「恥ずかしいような、田舎のものでございます」とだけ言った。
「桐生と言えば、当方も、いくつかお付き合いさせていただいておるお店がございます。いずれも市中のお店と聞いていますが、香魚屋さまは、どちらのほうでございましょう」
(来た――!)
五郎が引取り、
「私どもは、ずっと山の方でございまして、渡瀬川の別れた寒戸川のそばなる、小さな店でございます」と、述べた。
「なるほど、水のよいところでございましょうね」
「はい、それだけが取り柄のような土地でございます」
七兵衛は、生地を次々に検分していく。
「ふうむ。帯にも立派なものでしょうが、袋物などに仕立てれば、さぞ面白いものになりましょうな」
まんざらお世辞でもない口調。
「ありがとうございます」と、五郎はこちらも慇懃丁寧に、お辞儀をする。「ときに……ご主人自ら、このようなものをご覧いただき、恐縮しごくではございますが、こちら、御番頭さんは……」
七兵衛の手が、はっと止まった。
前に押し倒していた身体を起こし、五郎を見据える。
その目に、ただならないこわばりがあるのを、政次は見て取った。
「ええ、手前どもの番頭は、故郷で少し、急ぎの用ができまして、短いひまを出しております。それゆえ、あたくしが、お相手をさせていただいております。何か、番頭でなければいけない御用でも」
「いいえ、いいえ。失礼いたしました。ごく、気短かで直截な話でございます。もし手前どもが、萬屋さまとお取引の栄に預かれるようでしたらば、値のことなどは、あたくしらどうしでお話をさせていただければ、ご主人の
あの、無口なはずの五郎、まるで人が違ったように、流暢に話し立てる。
「そのことでしたら、ご心配なく」と、七兵衛はぴしゃりと言い、広げた生地を丁寧に巻きはじめた。
(これあ、商売としてなら、失敗ってことになるんだろうか)と、政次はぼうっと見ている。
「それで、いかがなものでしょう」と、五郎の押し出し。
「あたくしは、よろしいかと存じます」と、七兵衛は、政次と五郎を、代わる代わる、見る。「ただ、お恥ずかしいことに、まだまだの三代目ですから、御新規でのお取引となると、先代の許しを得なくてはならないという、《きまり》がありまして」
「ほほう、なるほど。これだけのお店なら、もっとものことでございます」
「香魚屋さまも、お急ぎのことでしょう。さいわい先代も家中にいると思われますので、いましばらくお待ちくださいませ」
言うと七兵衛は、後に控えていた手代に、何事かを命じる。
心得た顔の手代が、つと立って座敷を出ようとした時、襖がさっと開いた。
「あっ!」と言ったまま立ち尽くしていたのは、背の高い、女だった。
女中では、ない。
かと言って、町屋の女とも思われない。
地味な色使いの唐桟の長着をまとった女は、何ともしれない妖気を発散していた。
きつい顔つきではあるが、それゆえに、ぞっとくるような、美人だ。
すっと膝を折り、
「これはたいへん失礼いたしました」と指を突き、襖に手をかける。
振り返った七兵衛は、あきらかに狼狽している。膝を崩して、閉じられた襖に追いすがり、後を追っていく。
開け放たれた襖の向こうで、
「小菊さま!」と言う七兵衛の声が、確かに、聞こえた。
残された手代は、政次と五郎に手を突き、意味ありげな上目遣いをしたかと思うと、立ち上がり、出ていった。
政次は五郎を見る。五郎も政次を、見る。その目は、けわしく、先ほどの、年季の入った番頭の面影は、ない。
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