二十二
「おまえ、今からしばらく、商人になれ」
安斎先生の目は、いつになく、厳しい。
「へぇ。もとよりおれは、しがない振り売りだけど」
「そうではない。いまの
「そ、そんな……」
「わしが昨夜書き、今朝出した書状のひとつは、萬屋に宛てたものだ。『桐生から見本を持って江戸へ出てきたが、そこで萬屋さんのお名前を耳にした。ついては急なことではあるが、ぜひ手前どもの品を見ていただきたい』と、おおむねそのようなことを書いたところに、さっそくの返事だ。『今日の夕六つにおいでください』とあった」
「しかし、せんせい。日に焼けてこんなに真っ黒なおれが、手代なんかで通るわけがないですよ」
「なあに、そこがおまえの見せ所だよ」
「でも……おいらそもそも、桐生ってのが、どこのどういう土地かも知らねえ」
「うん」と、安斎先生はうなずき、机の上から数枚の半紙を取り上げた。「にわか仕込みはこのばあい仕方ない。が、だいたいのことは、まとめておいた」
差し出された紙の束を、政次は手に取る。小さな文字で、びっしりと書いてある。
(これではおそらく、安斎先生は、夜なべだったろう)
政次は感心しながら目を通すが、この期におよんでは、頭に入るものではない。
「桐生は、秩父のさらに奥。赤城山の麓。まず、山ばかりの土地と言っていい。
「で、せんせい、その、屋号というか、おいらの名前は何ていうんで。まさか、魚売りの政次というわけにも」
「
安斎先生は、即答した。
「あゆや、まさじ、はんべえ……」
「魚屋、と名乗らせたいところだが、桐生の在ということでは、少しばかり無理がある。が、桐生でも、鮎ならよく獲れる。政次は、おまえの名前。半兵衛というのは、まあ、今日のところは半分だけ、若旦那という意味だ」
「むーん……」と政次は、感心するやら、戸惑うやら。「で、おいらは、今から萬屋へ乗り込むんで?」
「そこだ。先方から、宿はどこかと問われて、おまえ、どうする」
「うっ……」
「両国の橋の向こう、《枡屋》という旅籠が、おまえの宿だ。まずはそこへ行くとよい。生地の見本もそこへ、ととのえてある」
「……」
「さあ、そろそろ行くがよい。《番頭》の五郎衛門が同道してくれるから、思い悩むことはない。わからないことがあれば、ぼうっとしておればよい。……なあに、田舎の若旦那なぞ、どうせ、そういうものよ。ふっふっふ」
安斎先生は、山羊髭をしごきながら、いかにも楽しそうに笑う。
「せんせい……こうにまでして、おいらが萬屋に入り込むわけは、なんなんで。それを教えてください」
「それはな……」と、安斎先生は、目を輝かせる。「わしにも、わからん」
「ええっ」
「おまえの
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます