十九
朝湯も終わり間近、朝の四つとはいえ、銭湯の湯はまだ熱湯に近いようで、政次は足先を入れたまま、真っ赤になって動けないでいた。
安斎先生は、肩まで沈んで目をつむり、極楽のようす。
(困ったなあ)と思っていると、石榴口から、早口で、
「つめてえやつが入ります。失礼します。悪しからず」と入ってきた職人風に、どんと突かれるように、湯船に落ちた。
「熱っつう!」と、声にならぬまま、心のうちで叫び、政次、絶句。
全身の毛穴から、針を刺されるようである。
じっとこらえて、白目で上を向く。
小さな引き窓には青空が小さく切り取られていて、その明るさが、湯屋の中を巡り、やがてたしかに、よい心持ちになってくる。
しかし、それにしたって、熱い。
「ようく浸かって、しっかり垢を落とせよ」と、安斎先生。
「うぅ……。へぃ」
「おまえには、今日、仕事があるからな」
「いえ、せんせい。おいらぁ、今日は、商いには行かない……。うぅ」
湯の熱さに、声も、くぐもる。
「いや、なに。おまえの、今日の、仕事はさ……。いつもの商いではない」
「へ?」
「政次、おまえは今日……」
と、安斎先生が言いかけたとき、
「ごめんなさいよっ」と、先の職人風が、慌ただしく上がっていく。湯船に熱い波が起こり、政次はまたもや、はりせんぼん。
見ると、安斎先生も、眉間に皺を寄せている。
政次は、
「くすっ」と笑った。
「何かおかしいか」
「いえいえ。なぁんにも」
湯船には、二人きり。
後から誰かが、入ってくるようすもない。
「おまえ、ゆうべは、よく眠れたのか」
「さっきも申し上げました通り、よくやすませてもらいました。畳というものが、あんなにやわらかなものだとは、初めて知った」
「……」
「布団のことは、すみません。おいら、慣れないもので」
「そんなことは、どうでもいいが」
「……」
「すぐ、寝付かれたか」
「いいえ。すこしは考え込んでしまいました」
「何を」
「平佐が手引きしたらしい、あのもぐらみたいな奴と、鮫のような顔をした岡っ引き……」
「……」
「なんで、あんな奴が十手を持っていたのかって。お上の仕事だと、言っていやがった」
熱い湯の中で、言葉が切れ切れになるので、政次のことばも、いきおい、丁寧さを欠いてしまう。
安斎先生の声も、実は、こもる。
「……十手持ちにも、いろいろあるさ。おそらくそいつは、岡っ引きの下働き。おまえの言う人相通りなら、下谷の鮫というやつだ」
「まんま、鮫なんで?」
「そう。で、もぐらというのは、おそらく……それは……
どうやら、安斎先生も、すっかり茹で上がったらしい。
「せんせい、上がりませんかね」
「おまえがそういうなら、そろそろ上がろうか」
二人、そうっと、湯を波立たせずに、石榴口を出たのであった。
麻袋に、糠をたっぷり詰めたやつで、政次は安斎先生の背中をこする。
流し場には、他に誰も、いない。
「ということは、平佐はただのごろつきではないんで?」
「ごろつきと岡っ引きの、きわも、近頃では、あいまいなものだ。いや、むしろ、平佐なんぞは、ましなほうかもしれん」
「たしかに、もぐらのほうが、たちが悪かった。……せんせい、腕を上げてくだせい」
安斎先生のからだは、たしかに年寄りのそれではあるが、なんとなく筋張っていて強いな、と、政次は思った。
「連中の探しものに、おまえは心当たりがついたのかい」
「いや、ぜんぜん、わからねえ。おいらの考えは、おし津さんのところにさしかかると、まるで止まってしまうんです」
「それは、おまえの、おし津への《思い込み》のせいじゃないのか」
「えっ? それぁ、どういう意味ですので?」
「まあよいわ。どれ、つぎにはわしが流してやるか」
「ま、まさか。めっそうもない」
政次は先生の身体に、丁寧に
湯屋の二階、広間の片隅で、安斎先生と政次は、向き合っていた。
浴衣にうちわ、ともにあぐらの、くつろいだかっこうである。
「わしは今朝、
「へぇ、どんな文なんで」
「ひとつは、萬屋へ」
「えっ。萬屋へ?」
「桐生から、ある組紐の問屋が行くので、会ってやってくれという、紹介状だ」
「へぇ」
「いまひとつは、千春の母への言付けだ」
「ふうん」
言いながら政次は、冷えた麦湯をすする。なんとも、うまい。
「で、どうだ」
「どうだ、とは、なんです」
「なにか、こう、ぴいんと、来ないのか」
「ええっ?」
「ああっ。気のもめるやつだ。さあ、髪結いへ行くぞ」
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