十七

 思いのほか入り組んだ廊下を渡り、政次は台所に出た。

 明るい月が、土間に格子の影を落としている。

 なるほど、瓶にたっぷりある新しい水を、ひしゃくで、飲んだ。

(うまい。やっぱりおれには、酒よりこっちがいいや)

 もう一杯。

 喉がすっとすると同時に、政次の頭に、ある考えがひらめく。

 御家内の行跡に、へきえきしていた七兵衛が、やはり下手人ではないのか。そもそも、姦通は、男女とも死罪が掟だと聞く。七兵衛としては、出るところに出てもいいわけだ。

 しかしそれでは、大きな店の中が収まるわけもないというなら、どこかに《落としどころ》が要るのではないのか。

 かわいい娘に婿を取った、四郎兵衛の胸の痛みは、いかほどだろう。

 それでも、三代続いたのれんが、何よりたいせつだとでもいうのか。

 いや、それとも、棒手振の貝売り風情にはうかがい知れない、金持ちゆえの、何かの機微でもあるものか。

 政次のまぶたの裏には、あの日、別れを告げに来た由兵衛の顔が浮かんだ。

 やつれてはいたが、何かを心にしかと決めたような、男らしい顔だった。

(どんなきっかけがあったにしても、あいつが女を手にかけるようなことは――やっぱりあるめえ)

 だとすると――。


 政次はもと来た廊下を足早に戻った。

 安斎先生は机に向き直り、巻紙を前に、何か書状を書いている。

「せんせい……」

「少し、待て」

「はい……」

 政次は自分の考えを、ととのえた。

 安斎先生は筆を置き、書き上げたばかりの書状をざっと眺め、畳んだ。

 政次に向き直る。

「どうしたか」

「おいら、少し、考えてみました」

「ふむ」

「おいらの浅知恵ですから、間違っていたら、そう言ってほしいんですが……。

 おいら、やはり下手人は七兵衛さんだとしか、考えられねえ。で、由兵衛ですが、これあ、身代わりに、なったんだ。いや、させられたんです。

 その四郎兵衛さんという先代に因果を含められ、由兵衛は、おかみさん殺しの罪をかぶったんだ。

 これで、店の中へのしめしは、つく。

 その代わりと言ってはなんだけれど、名主としての力と旗本様とのご縁でもって、追っ手はかからねえようにしてくれる。そうでもなけりゃ、どこかの関で身柄を取られ、御白州おしらすにでも引っ張り出されれば、由兵衛もすべてを吐かなくちゃなんねえ。だから、そうならないように、諸方に手配りがされて、しばらくは西国さいごくにでも身を隠す、という筋書き」

「それから、どうなる」

「それから……それから……それからは、あれです、手代が番頭になるまでに、なんどかお暇を出されるのは尋常のこと。ほとぼりが冷めたころ、お呼びが掛かって、どこかにのれん分けをさせてもらう、など……」

 安斎先生は、南蛮渡来の酒を手酌して、くっとあおった。

「おまえに読ませてやった草双紙などは、ずいぶんおまえの役にたったようだな」

「えっ?」

「いや、言葉以上の含みはないよ。手習いもろくに受けられなかったおまえの、その筋書きは、まこと、理にかなっている、といいたいのだ」

「では、せんせい……ことは、おいらの見立て通りなので?」

 安斎先生は、からになった硝子の杯を、手の中でもてあそんでいたが、

「わしも長く生きてきたが、世の中のまことというものは……」名残惜しそうに、杯をちゅうっと啜る。「真実というものは、そうそう、理に落ちるものではないのだ」

「……」

「何をぼさっとしている。あと五勺でも、わしの杯に注がないか」

 政次は硝子瓶を手に取り、こわごわと栓を抜き、安斎先生に酌をした。五勺よりは、心持ち、少なめに。

(ここでせんせいに、酔われてしまってはこまるしなあ)

 そんな政次の気持ちを見抜いてか、安斎先生は、ふっと笑い、

「魚屋は、明日は仕事になるまいて」

「でも、せんせい、まだ、話が……」

「なんの話だ」

「せんせい、すかしちゃいけません。おれあもう、頭の中が、ぱんぱんになってる。はち切れそうです。おれの考えの、どこが間違っているかを聞かないと」

「それは、わしにも、わからんよ。……だがな、おまえの見立ての中に、抜けているものはないのか?」

「抜けているもの……」と考え、政次はぎくりとした。「そうか。せんせいがおっしゃりたいことは、あの岡っ引きとごろつきを合わせた三人組」

「それだけでは、あるまい」

 そうだ。やつらが家捜ししていたのは――。

「おし津さんも、このことに、かかわってるって、ことですかい」

 鐘が鳴った。こんな時刻の鐘を、政次、聞いたことはない。石町の鐘だろうか。捨て鐘三つの後で鳴ったのは、暁の八つ。丑三つ時のただ中。

 安斎先生は、両手を伸ばし、大げさなあくびをした。

「玄関脇の三畳で寝るとよい。わしは、やすむぞ」


 表玄関脇、診療部屋のとなりに、客を迎える三畳があった。

 五郎の仕事だろう、布団が敷いてある。

 政次はこわごわと、もぐりこんだ。

 日向臭いような、薬臭いような、いい匂いがした。

 蚊帳かやはないが、どういうわけだか、虫もいない。見えないところで、蚊遣りが焚きしめられているのかもしれない。

 枕が高すぎるので、外して、手枕をした。

 闇に目が慣れてきて、天井の格子と、杉の柾目まさめが見えてくる。

(おし津さんが、からんでいる、だって?)

 掻い巻きすら掛けたことのない政次には、ふかふかした布団は、熱すぎる。

 掛け布団を脇にのけ、大の字になってみた。

(そもそも、あの三人組は、何を探してやがったんだろう?)

 寝付かれない。

 政次は起き直り、布団をぜんぶ部屋の片隅に寄せ、畳に、じかに横たわった。

 いぐさの、青くて、いい匂い。

 これでも背中が温かすぎるくらい。

 やがて、眠ってしまった。

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