十六

 安斎先生の話は、かいつまむと、こうである――。

 人形橋の小間物屋である萬屋は、いまの主で三代目。

 元は、組紐や袋などを小さく扱う店だったものを、先代のが大きくし、中店と言って恥ずかしくないほどの身代を構えた。

 ところがこのやり手の二代目、萬屋四郎兵衛よろずやしろべえには、男子がなかった。

 二人の女子があったが、上の娘の小菊は、上野の花見が縁で、ある旗本の子息に見初められ、嫁入りをした。次の子の美雪に養子をもらった。それが、いまの三代目の萬屋七兵衛しちべえである。

 七兵衛は初代の故郷でもある相模から、十の歳で奉公に出て、十五では手代をつとめ、めきめきと力をつけて、二十五の歳に番頭になった。

 四郎兵衛は次女の美雪に七兵衛を婿として迎え、店をゆずった。

 七兵衛二十七、美雪十九の歳である。

 三代目になっても、七兵衛は驕り高ぶることもなく商売に熱心で、扱う品の幅を広げるなどして、店はますます繁盛。順風満帆かと思われたが、落とし穴があった。

 美雪の身持ち、である。

 豊かな家の次女に生まれた美雪は、娘のころから物見や芝居などが好きで、しばしば出かけていたが、夫を持ってからもその癖が改まるどころか、ついには、あろうことか、役者買いなどするようになる。吾妻橋あたりの、一見はなんのへんてつもないような船宿に上がり、そこで若い役者などと落ち合い、供の者を待たせて一刻ひととき二刻ふたときも過ごすことがあるというので、いかによくしつけられた商家の中とはいえ、ひそひそとした噂になる。

 七兵衛は店の者たちからの信頼も厚かったので、やがて遠回しに《こと》を知ることになり、悩んだ。

 何しろ妻女は主の娘。手を上げるなどもちろんのこと、強くも言えない。

 ただ、人目のあることでもあるし、どうか船宿になど出かけるのだけはやめてくれと、哀切に訴えるだけだった。

 居直った美雪は、それならば、ということで、男あるいは男たちを、公然と店に呼ぶようになる。人気の役者などは、もともと店先で買い物などするものではないが、とはいえ、奥へ上がり、閉め切ったままの座敷で、主の妻女と夕方まで過ごすというのも、尋常なことではない。

 見て見ぬふりの七兵衛と、その苦悩を、これまた見て見ぬふりの店の者たちの間は、しだいにぎくしゃくし、店にも以前ほどの活気が出ない。

 隠居の四郎兵衛が知るところになれば、とは誰もが思ったが、隠居とはいえ町の名主を務めるなど、まだまだかくしゃくとした四郎兵衛の逆鱗に触れるのを怖れ、誰も注進する者などいなかった――。


 政次などにはうかがい知れない大きな店の内幕を、安斎先生は丁寧に教えてくれた。

 川の端に並んでいるあの船宿が、のんきな見かけの裏では、そんなことに使われていたというのも、驚きだった。

「すべてが、ではないぞ。中にはそうした、出会茶屋のような商いをする宿もあるということだ」安斎先生は徳利を傾けたが、五合入るそれは、すでに空。「どれ。わしみずから、とっておきのを出すかな」と、安斎先生は立っていく。


(せんせいの話は途中のようだが、ここにおれの見聞きしたことが、どう繋がると言うんだろう。たしかに由兵衛は萬屋の手代であったらしいが、あいつは何者なんだろう。おし津や、その部屋を家捜ししていたあの連中も、何か関わりがあるんだろうか)と、政次は首をかしげた。(よし、こうなったらおれも、ない知恵をしぼってみよう。酒なんか飲んでいては、頭がくもっていけないや)

 学のない政次ではあるが、謎に頭を巡らすことは、きらい、ではない。

 いやむしろ、好きだ、と言ってよいだろう。

 草双紙の判じ物よりずっとややこしい謎だが、それゆえ、燃えるものがある。


 やがて戻ってきた先生は、奇妙な形をした瓶と、硝子の杯を携えて戻ってきた。

「ほれ、杯を取れ」

 政次は、細い柄のついた、いまにも壊れそうな酒杯を、こわごわと手に取った。全体が青く染め付けられていて、縦横無尽にやすりで刻まれ、なんとも美しい模様が浮いている。

 安斎先生がそこに注ぐのは、茶色くとろりとした液。

「これは、何なんで」

「南蛮の酒だ。十両出しても、店では買えない。珍しいものだぞ。まあ、舐めてみろ」

 鼻を近づけると、甘い果物のような、しかし確かに酒のにおいがする。

 おそるおそる、舐めてみた。

「うわっ!」

 舌が焼かれるようだ。目頭に涙がにじんだが、なんとか喉を通す。

「はっはっは」と、安斎先生。「強いか」

「強いなんてもんじゃねえです」

「でもこう、鼻から抜ける、いい香りがあるだろう」

 言われてみれば、そんな気もするが、それにしても――。

「南蛮人は、こんなものをやってるんで?」

「《こにゃっく》という酒だ」

「こんにゃくの酒なんで?」

 安斎先生は、

「ふふふ」と笑いながら手酌で注ぎ、ちびりとやる。「ああ……いいものだなあ。あの南蛮人を診てやって、よかったわえ」


「で、せんせい……話の続きを」

「うむ。わしの話も、じき、しまいだが……」

 安斎先生の目の光りは、まだ尋常で、むしろ鋭さを増しているようにすら見えた。

「……」

「奥の座敷で殺されたのは、身持ちの悪かった妻女、美雪だ。早耳のかわらばんは《めった刺し》だ、などと言っていたが、実際は短刀で首を一刺しだった」

「せんせいは、なんでそこまで……」と言いかけて、政次は、はっとした。「もしかして、先生……ごらんに、なったんで」

「うむ」と言いながら、安斎先生は硝子の杯を傾ける。「わしが見たときには、すでに冷たいむくろになっていたがな」

 人の生き死には診ないと言っていた安斎先生である。

「坊主を呼んだわけではないんで?」

「人死にには、検屍というものが、あるのでな」

「でも、あの……届けは、どうなすったんで」

「届けとは」

「市中の店の中で、殺しがあったんだ。その……奉行所なんかへの届けが」

「四郎兵衛は、店こそ七兵衛に譲ったものの、れきとした町名主だぞ。それにまた、美雪の姉、小菊は、旗本に嫁いでおる」

「つまり、うやむやってことですかい……」

「かわらばんにも、出ておらんだろう?」

「そういや、そうです」

 名主と言えば、江戸に三名の町年寄の下で、大きな力を持っていると聞く。それにしても、人殺しが、こうして簡単にもみ消されてしまって、それでいいものだろうか、と、政次には合点がいかない。

「政次、おまえの気持ちはわからんでもない。わしも同じ心持ちだよ」

「で、せんせい、かんじんの下手人は」

「おまえ、どう思うかね」

「やっぱり……その、見かねていた三代目の七兵衛さんが、その……逢い引きの場所なんかに出くわして……それで、ついかっとして……ってとこですかい」

「それで《萬屋》の家中は、収まるものかね」

「……」

「おまえのひろった行き倒れは、何ていったかな」

「萬屋の手代の由兵衛です……え、まさかあいつが下手人」

「わしは、そうは言っておらぬ」

「いや、せんせい……お言葉を返すようですが、おいらには、あいつがそんなことしでかす野郎とは、どうしても思えないんで」

「そのわけは」

「あいつは、そのう……確かに、酒好きの、飲んだくれのようですが、なんていうのか……」

「なんていうのか……どうなんだ?」

「女の首を切りつけるような男には、どうしても思えねえんです」

「ま、わしはその由兵衛とやらを、知らんのでな。しかし、おまえがそう思ったのなら、そうかもしれん」

 ちびりちびりとやっていたつもりだったが、南蛮の酒は喉を焼く。

「せんせい……おいら、ちっと、水をちょうだいしたいんだけど」

「ああ、水瓶にたっぷりあるよ。じぶんで取ってこい。あ、手燭を忘れずにな」

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