十五

 政次は夜道を駆けていた。

 あんな事の後では寝付かれるはずもなく、空の天秤棒を担いで、長屋を飛び出したのだ。

(あの連中、いまごろ汁粉屋に押しかけて、小さな爺さんを、がたがたと、おびやかしているんだろうな。悪いことをしちまった)

 駆けて行く先は、永代橋のたもと、安斎先生の療養所である。

(せんせいなら、何かいい知恵があるに違えねえ)

 というより、安斎先生のほかに、この話をする相手は、いない。

 先生の町内に入る木戸では、番太郎が二人、それぞれ六尺棒を手に、何やら話している。

 政次が身を屈めて抜けていこうとすると、

「おい」と一人が声をかけた。「もう夜の四つだぜ」

「でもまだ、木戸は……」

「いま、閉めるところよ」

 こういう時、何十文かでも《袖の下》を渡せば話はかんたんなのだろうが、それもしゃくだ。

「おいら、いや、あっしは、お医者の安斎先生のお宅に用があるんで」

「それがどうした」

「急病人が出たんですよ」

 番太郎は顔を見合わせたが、仕方なさそうにあごで「行け」と合図した。

 たとえ門限を過ぎいたとして、医者や産婆の用を通さなかったら、後がおそろしい。

(せんせいが医者でよかったぜ、まったく)


 少なくとも表から見たところ、療養所に灯りはなかった。

 息を調え、生け垣の切れ間から入ろうとしたとき、しゃっと短く鋭い音がした。

 はっとして目をやると、闇の中で小男が身を屈めている。庭男の五郎が、竹箒で地面を擦った音だった。

「お、おれです。こないだの、魚売りの、政次です」と言うのへ、手で黙るように合図をして、くるりと向きを変える五郎。

 ついてこいという意味なのだろうと合点して、壁に沿って歩いて行く。

 と、五郎はひょいっと一歩、建物に寄ったかと思うと、犬走りの砂利を踏んだ。政次も続く。

 ちゃりちゃりと、小気味のよい音がする。

 格子から灯りの漏れる窓までたどり着くと、中から声がした。

「お客かね、五郎……。背が高くて痩せている、足半あしなか草履をつっかけた奴だろうかな。ふっふっふ。錠は開いているぞ」

 五郎が音もなく板戸を開け、政次に手招きをする。

「せんせい、夜分にもうしわけないことです」

「まあ、上がれ上がれ」

 そこは先刻通された、薬戸棚のある間ではなく、どうやら先生の寝所らしい。

 小さな机の上に、開いた硯箱と書物がある。

 政次は上がろうとしたが、駆けてきたせいで、足がどうにも泥だらけで、ためらった。

「気にするな。さあ上がれ」と強くうながされ、上がり込む。

「せんせい、お勉強の最中でしたね」

「いや、遊びだよ。して、おまえの顔は、引きつっているな。何があったのか、まあ、ゆるゆる話せ」

 政次は、安斎先生と別れたところから、話をしなくてはならなかった。

 あの日、夜から雨になり、その中を、旅装束の由兵衛が、いきなりやってきたこと。それからしばらくった今日、おし津とばったり出会い、汁粉屋で話をしたこと。そして、十手持ちとごろつきが組みになって、長屋へやってきたこと――。

 前後してもつれながらも、なんとかおおむねのところを、話すことが出来たと思った。

 と、こほんとしわがれた咳払いが聞こえ、するすると襖が開いて、五郎が酒の載ったお敷きを差し出した。かぶり物はしていないが、灯りの具合でやはり顔は見えない。

「ほかに何かありましたら」と錆びた声で言う。

「いや、今夜はもう、何もない。戸締まりをして、下がってくれてけっこうだよ」と、安斎先生は心のこもったようすで、ねぎらった。

 五郎は元通りにするすると襖を閉める。立ち去ったと思われたが、その間、何の音も立てなかった。

(まるで、講談に出てくる《忍び》のようなやつだな)と、政次は思った。

「寝酒に付き合え」と、安斎先生は杯を勧める。

「いや、おいら、ほんとに今夜ばかりは、いけないんで」と断りながら政次は、かなり熱く燗をされた徳利を手にとって、安斎先生に酌をした。

 先生はうまそうに杯を傾けると、

「実はな、わしも、いろいろと調べてみた。ただし、やはり、ところどころが抜けていたな。おまえの今の話で、いくつか糸がつながったところもある」

「それは、どんなところなんで?」

「それを今から、ほぐしてみようじゃないかと言うんだ。おまえとわしと、知恵を合わせてみないかと言うんだ」

「……」

「どうだ?」

「でも、おれの知恵なんか……」

「まあ、よい。とにかく一杯受けろ。さあ」

 政次は身を縮こまらせ、杯を差し出した。

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