十四
いつものように、稲荷の前を通り井戸端を抜け、長屋に戻ろうとした政次は、ただならぬ気配を感じた。いや、正直に言えば、気配などというものではない、ひとの動きだ。
雨上がりの地面に、やたらと多くの足跡がついていて、低く押し殺してはいても、男どもの声がするような。
政次はまず、自分の戸をそっと引いて、身を滑り込ませた。
耳を澄ます。
隣の秀助のうちからは、もの音ひとつしない。
やはり、ことは、一すじ奥の棟で起こっているようだ。
つまりは、おし津と大吉夫婦の棟。
政次は床を這ってゆき、裏に面した壁の節穴から、裏手をそっと覗いてみた。
おし津の部屋に、薄ぼんやりと灯りが見える。
(おし津さん、もう帰ってきたのか?)
いや、これから用事にでかけると確かに聞いた。ようすからして、近いところではなさそうだった。
じっと見ていると、おし津の部屋から洩れる灯りは、行灯のそれではない。
何人かが手燭か提灯をかざしているらしく、ちらちらと、揺れている。
政次はぱっと立ち上がり、土間に立てかけてあった天秤棒を手に取った。
がらっと戸を開けて路地を巡り、おし津の部屋の前に立つ。
「えへん」とひとつ咳払いをして息を整え、「おし津さん、いるのかい」と呼ばわってみた。
揺れていた灯りが、止まる。
「おれですよ。裏の、政次です」
がらりと戸が開いて、太い腕がにゅっと出た。
政次は浴衣の襟首をつかまれ、中に引き入れられる。
胸ぐらを引き寄せておいて、
「声を立てるんじゃねえ」と言う男は、顔の造作が真ん中に寄った、もぐらのような顔をした奴だった。
政次が目を泳がせると、部屋の中には、あと二人の男。
大きく裂けた口から乱杭歯をのぞかせている、鮫のような奴と、そしてもう一人、座敷の真ん中に突っ立っているのは、あの遊び人の平佐だった。
もぐらは怪力で政次の胸ぐらをつかんでおきながら、天秤棒をもぎり取って、土間に投げ出した
「後家の家を訪ねるってんで、野暮な棒っこを持ってきたかよ。ええ?」
下卑た声でそう言うと、もぐらは、空いた手を添えて、両手で政次の襟首を捻る。どういうわざなのか、政次の身体はふわりと浮いて、気がつくと、上がりかまちに叩きつけられていた。
背骨にぐっと、膝が押しつけられて、息もできない。
「それぐらいに、しておけよ」と平佐がもぐらを止めながら、「だんな、こいつが政次で」と、鮫に向かって言う。
政次が抵抗する気はないと見てか、もぐらは力をゆるめた。政次はなんとか身を起こす。
鮫が、政次の前にしゃがみ込み、ぎざぎざした歯を見せて、にいっと笑う。その手には、十手。
「おれあこうして、十手を預かる身だ。つまりは、これも、お上のはたらきだ。隠しごとをしては、おめえのためにもならねえ。さて、ここい住まっている後家は、どこへ行った」
「おいらあ、知らねえ」
「へえ、そうかい。おまえとその後家が、湯屋の前を、でれでれと歩いているのを見たって奴がいるんだがな」と、鮫は十手の先で、政次の胸を小突く。
「……」
もぐらが腕まくりをして、
「こいつ、しらばっくれてやがる」と、顔を尖らせ、政次の手首をつかむ。
どういう力のあんばいなのか、骨がきしむような、いやな痛み。
「知らねえものは、知らねえよっ!」
手首をかばって前のめりになりながらも、
(もしかするとこいつら、おれとおし津さんが汁粉屋へ入ったことには、気づいてねえな)と思う。
「もう少し、締めようか」ともぐらは、その手にひねりを加える。
「やめとけ」と言うのは平佐。「こいつは、ばかに頑固な野郎なんだ。痛めつけても始まらねえ」
もぐらはわずかに力をゆるめた。
鮫は、政次のあごを十手でしゃくっておきながら、
「じゃあ、おめえの部屋も検分させてもらうぜ」
「ああいいよ。何にもありゃしなくて、おどろくぜ」
鮫は十手を引いたが、もぐらは手首を離しざまに、政次の横っ面を張った。
(この野郎、けっして許さねえ)と思ったが、ここではどうすることもできない。
もぐらに後帯をつかまれ、男達を自分の部屋に案内するはめになった。
板の間に、ざさがさの薄縁、そして由兵衛がきっちり畳んだままの、せんべい布団。丸火鉢の他には、家具らしいものもない。
「こいつ、生意気な野郎だな」と、もぐらが手にしたのは、江ノ島の本だ。
「あっ、それは……」と、思わず声が出た。
「んん?」と言いながら、もぐらは本をぴんと引っ張って、今にも破ろうというような仕草。
「そ、それあ、大切な借り物だ」
「へぇ……」と言いながら、もぐらは、急所でも押さえたように、じりじりと本を引っ張る。
「やめろ」と言ったのは、鮫だった。「おまえはどうも、
もぐらは、ふてくされたように、江ノ島の本を投げ出す。
鮫は、高いところに積んであった他の本を手に取り、順番にぱらぱらとめくっている。
(これで帰ってくれりゃあいいが)と思いながら、政次は神棚の小判を思うとひやひやする。
なるべくそちらに目をやらないように、見かけだけは、すっとぼけて、
「やいやい、おまえら、しがない魚屋の
男達三人は、それとなく顔を見合わせた様子。
と、もぐらが、台所にぽんと置いておいた、弁当包みを見つけた。
「みょうなもんがありますぜ」と、鬼の首でも取ったようだ。
「開けてみろ」と鮫。
包みをほどくと、出てきたのは真っ白な塩むすびと、玉子焼きだ。
「棒手振ふぜいが、ぜいたくしてやがるぜ」と、もぐらは口をひん曲げた。
平佐が、つと動いてもぐらから弁当を取り上げ、じっと見下ろしていたが、
「だんな、わかったぜ」
「何がだ」
「掠れてはいるが、竹皮に押された、この、茶釜にたぬきの焼き印……」
「どこの店だ」
「これは、清澄の湯屋の向こうの汁粉屋、《ぶん福》の紋に違いねえ」
「ほおぅ?」と鮫は、政次をするどく睨み付ける。「おめえはいつも、こうした弁当を食らう身分なのか」
「知らねえよ。長屋の誰かが、置いて行ったのかも知れねえな」
「こいつっ!」ともぐらがつかみかかろうとするのを、鮫が制して、
「平佐、そこへ案内しろ」
出がけに、平佐は少し後へ残って、政次へ身を寄せると、
「おめえのために言っておくぜ。よけいな動きはしねえほうが身のためだ」と、脇腹を小突いてきた。
男達は戸も閉めずに出ていった。
政次はあたりを見回し、まずは無事だった江ノ島の本を元通りに閉じた。
天秤棒が、おし津の部屋に残ったままなのに気づく。
(ちきしょうめ。あのもぐらぁ、許してはおかねえぞ)
まだ痛む手首をさすりながら、おし津の長屋へと路地を回る。
と、暗がりに、大きな人影が浮かび上がっている。
「怪我はねえのか」と言うその声は、大吉だ。「ずいぶんな騒ぎだったが、出て行かれなくて、面目ねえ。こっちは、独り身じゃあ、ねえからよ。悪く思わないでくれ」
「ああ、大吉つぁん、それはこっちの台詞だ」
「話は筒抜けだったが、その……後家は……間違いねえんだろうな」
「どういうことで?」
「人形町の……」と大吉は声をひそめ、「殺しのことよ。木場でもその話でもちきりだったが、《萬屋》と言えば、あの後家がよ……」
「えっ?」
「おめえは何にも知っちゃいねえんだな。あの後家が、出稽古で出入りしていた店よ」
「そうだったのか」
「それにしても、やつらの調べは、あれは、じんじょうなものじゃねえな。御用の提灯も無ければ、平佐のようなごろつきまで手先にして。これは何か、わけがあるに違いねえが……」
「……」
「ああ、おれは何も聞いてねえし、見てもいねえ。明日も早いからもう寝ないといけねえ。後家の家の前にたたずんでいたんでは、かかぁの悋気にもいけねえ。……ほら、何してるんでえ」
「えっ?」
「天秤棒を取りに来たんだろうがよ」
見かけによらず――と言っては悪いが、思いのほか物知りで、気ばたらきのある大吉に、政次は驚いていたのだ。
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