十三
おし津が案内したのは、《ぶん
長いこと水にさらされて色が抜けたような爺さんが、ひょこっとお辞儀をする。
「おじさん、こんばんは。二階は空いているかしらねえ」
「へい、へい、どうぞ」
狭い段を上がると、小綺麗で小さな座敷だった。
おし津は勝手知ったる様子で爺さんに何事か言いつけ、政次に向かい合った。
政次は、こちこちである。
「政次さんはもっと、楽にするとよいわ。あたしもそうさせてもらいます」と、わずかに腰をずらして、横座りになるのもなまめかしい。
「大家さんは、知っているの? その……あたしがいなかったことを」
「え、ええ。まあ……」と言いながら、政次は、あんばいが悪い。
「そりゃ、あんなに狭い
「いや、それが……あっしなんで」
「えっ?」
「おし津さんちの戸が開いてるのが、あんまり気になったもんで、大家んとこへ告げ口したのは、あっしなんです」
「まあ、そうだったの」
「おれは、よけいなことをしたもんです」
おし津は(気にするな)というようすで、かるくかぶりをふったが、
「戸が、開いていた……とおっしゃった?」
「へぇ。まあ、その、二寸ばかりですがね」と政次は指を広げてみせる。「明け方にはどうとも思わなかったんですが、商売から戻ってもおんなしだったんで。それで、つい、こう、いやあな気がしちまったもんですから」
おし津は、何か、考え込んだ様子だった。
「しまりのないおんなだと、思ったでしょう」
「いえ、いえいえ、めっそうもない。そんなこたあ、これっぱかしも」
ゆっくりと階段を上がってくる音と、えへんという軽い咳払いが聞こえ、襖がそっと開き、爺さんが膳を運んできた。
「御用があったら、そこの紐を引いておくんなさい。ではごゆっくり」と、爺さんは消える。
見ると、黄色もまぶしい玉子焼きに、絞ったばかりと思われる青菜の香の物、それに銚子がついている。
「いけねえな、こりゃ」
「あら、どうして。ここの玉子は、男の人には少し甘いかもしれないけど」
「いや、そうじゃねえんで。おいら、湯ぅからまっつぐ来ちまったもんで」
「おあしのことを言ってるなら、気にしないでくださいね。ごめいわくをかけたお詫びです。さ……」と、おし津は銚子を手に、政次をうながす。
「面目ねえ。いただきます」
いけない口の酒をぱーっと喉に放り込んで、杯をおし津に返す。
「一杯だけね」と受ける様子は、さすがに小娘とは違う。
政次は杯を膳に置き、居住まいを直した。
「おし津さん、よけいなこととは知っちゃいるが、おいら、聞きたいことがあるんで」
「ええ、どうぞ」
「もしもだけれど、その、あの長屋に……そう、
「あるなら?」と、おし津は、上目遣いで政次を見る。
「あるなら……そのう……おいらに言ってくれませんか」
「……」
「どうなんです」
おし津は、お歯黒もしていない、白く揃った歯に袖を当て、
「ぷっ」と笑った。
「な、何か、おいら」と、政次が真っ赤になったのは、酒のせいではない。
「いいえ。笑ってごめんなさいね。でも……」おし津は、こほんと息を整える。「ありがとね、政次さん。あたしは、だいじょぶよ。店賃はね、あそこに移ってきた時から、ずっと先まで払ってあるの」
「おいら、やっぱり、余計なことを言った」
「いいえ。うれしい。そうして気にかけてくれて。さ、もすこし飲んでくださいな」
政次は目をつぶるようにして、杯をあおる。
おし津はすぐさま、銚子を差し出す。
(なんだかおれは、言いたいことが、言いたいように、言えないたちだ)
おし津が、座敷の隅の木札をたぐり寄せ、軽く引っ張ると、階下で小さな拍子木が合わさるような音がした。
「へぇい、いますぐ」と応える爺さんの声。
「政次さん」とおし津。「政次さんだから、言っておきますよ。あたしは、居抜きでいなくなったりはしませんよ。これにはすこうし、わけがあるの。ほんとはね、みなまで聞いてほしい話なのよ。でもそうなると、長い長いはなしになってしまいます。今だって、ほんとにもう、ここまで、のどまで出かかるようなはなしなのだけど、それには時が足りないの。わかってくれますか?」
「う、うん」
「今夜もあたしは、ちょっとした用を足しに、出かけなくてはいけないの。やがて戻るから。そしたらまた、政次さんの都合のいいときに、ゆっくりと話がしたい」
(出かけるとは、どこへ)と政次は聞きたかったが、飲み込んだ。
「戻られたら、きっと声をかけてくんなせえ」
「ええ、きっと約束するわ。指切りげんまんしましょ」
おし津は、形のいい小指を差し出す。政次、真っ赤になっているのは、酒のばかりではない。おずおずと、指を差し出す。
(湯の後でよかったよ……)
「ねえ、政次さん。あたし、お土産を買ってくるわね。だから、好きなものを言って」
「そんなお気遣いは……」
「いいから言って。なんだっていいのよ」
「……おいら、好きなのは……そのう……。本なんで」
「おやまあ、いい趣味。どんなご本が好きなの? 黄表紙それとも、草双紙?」
「本ならなんでも好きなんですが、字より絵が好きなんで。恥ずかしいや」
「まあ、そうなのね。恥ずかしいことなんて、ないじゃないの。近頃面白いものは、ありました?」
「判じ物に頭をひねってるようなしだいでして」
「まあ、そうなの……」
「だんな、だんな」と、揺さぶられた。
手燭を持った爺さんの顔が、笑いだか泣きべそだかわからないような顔で、暗がりに浮かび上がり、政次を見下ろしている。
「えっ? ここは……」
政次はばね仕掛けのように起き直った。
「もう、すっかり夜でございます」
「これあ、いけねえ」
「おやすみになるなら、夜具の用意をさせますが」
「おし津さんは……」と、問うのも野暮なことだ。
「ご用事ということで、お立ちになりました。だんなさんには、くれぐれも、ということでございます」
政次は頭をぶるぶると振って、座敷に立ち上がる。
「めいわくをかけたね、おやじさん」
店を出かかると、爺さんは小さな包みを差し出した。
「おし津さんに、言いつかったものでございます」
持ち重りのする竹皮の包みに、いつの間にかきれいにのされて畳まれた、政次の手拭いが載っている。
いぶかる政次に、
「お口に合うかどうかわかりませんが、手前どもでこしらえたお夜食でございます」と、爺さんが腰をかがめた。
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