十二
それから、思いのほかの、長雨になった。
河岸には、海の魚はともかく、貝は細々と揚がったので、政次の商売には、悪くないはずだった。
しかし、雨水の溜まった盤台を担いで商いをしても、どうにも景気はよくない。
《雨ん中でも棒をかついでいる政次》が、情けで買ってもらうのもしゃくなので、死んではいないこと知らせるくらいの商売をした。
政次の暮らしは迫ってきたが、神棚の小判には、手をつけていなかった。
そもそも、日銭の身にとって、金や銀などというものにはついぞ縁がなく、両替屋のありかも知らない。小判なんぞは、神棚のお守りとしてちょうどいい。
薄暗がりの中で政次は、まだ解けていない判じ物に目を凝らしたりする。
野郎が蜘蛛の巣を破いている、乱暴な図。これは、巣を割くというので《州崎》であるらしい。
丸い輪っかの中に、将棋の駒の歩があり、蚊が二匹――これがしばらくわからなかったのだが、ぴんと来た。
(《歩、蚊蚊、輪》――なんだい、《ふかがわ》かよっ)
ひとり、「えへへ」と笑う。
外はまだ、雨、である。
雨の中、ちいんという音がする。いや、ずっと前からしていたのだが、この音がどんどん耳に近づいてくる。
判じ物の深川どころではない。
蚊だ。
ぱちんぱちんと首筋を叩いているうち、切りがないので、いやになった。
(湯へ行こう)と思い立って、まだかりっとは乾いていない手拭いを手に取った。
昼八つを過ぎてもう夕の七つか。しょぼしょぼ降り続ける雨の中を、小走りに、湯屋へ。
熱い湯にからだを火照らせ、二階へ上がった。
ちょっとした贅沢だが、どうにもあの蚊には我慢ができない。
女中が酒を勧めたが、断り、冷やした麦湯をもらう。
政次には、これがこたえられない。
旦那衆は旦那衆、遊び人風は遊び人風でそれぞれ固まっている。囲碁や将棋に興じるものもあれば、隠れてさいころを囲んでいるらしい連中もある。
窓のそばが、めずらしく空いていた。
いつの間にか雨は上がっていて、湿り気のとれた風が抜けていく。
いい心持ちで、格子から往来を見下ろしていた政次は、思わず息を飲んだ。
目の下を横切るのは、見間違うはずもない、おし津だった。
政次は湯屋の階段をだだだっと駆け下り、外へ飛び出す。
埃の落ち着いた道を、下駄裸足ですっすっと歩いて行くおし津の行く手は、佐賀町の長屋ではない。
おし津を驚かさないようにと、政次は大きくその脇を周り、
「やあ、おし津さん」と声をかける。
おし津は胸に抱いていた風呂敷包みを、はっとしたように抱きしめ、目を丸くした。
「政次さん……」
「久しぶりじゃあ、ござんせんか」
「ええ……」と言いながら、伏せた目を泳がせる。
(それあ、往来で、おれのようなものにいきなり声をかけられれば、おどろくのも無理ぁねえよな)と、政次も言葉に詰まった。
と、おし津は、つと目を挙げて、小首を傾げながらにっこり笑った。政次がわしづかみにしている手拭いに目をやると、
「お湯に行って来たのね」
「へ、へぇ。そういうわけで」
「雨が長かったものね。気分が、くさくさしちゃうものね」
「ええ、とくにあんな長屋じゃ……」と言いかけて、政次は(しまった)と思った。
「あたしが家を空けていたことを……」と、おし津も言いかけ、ふと思い付いたように、「政次さん、今晩の商いは……」
「いやあ、きょうはもう、あがります」
「そうね、せっかくお湯をつかったんだものね。どうでしょう、ほんのちょっと行ったところに、あたしがすこうし知っているうちがあるのだけど、四半刻でもおはなしができませんか」
「へぇ」
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