十一
雨が傘に当たる、ばらばらという音で気づいた。
戸口に、人の気配。
「ごめんなさいよ」と小さな声。
その声には、聞き覚えが、あった。
心張り棒もかけていない戸を開けてみると、果たして、立っていたのは、由兵衛。
「……」
「夜分に悪いが、入れて下さいませんか」
ねずみ色に紺の縞の小袖の上に、黒地になにやら模様のついた紙子羽織を着ているが、傘はさしていても、その両肩はすっかり濡れている。
「ま、まあ、上がんねえ」
傘を畳んで入ってきた由兵衛は、上がりかまちに腰を下ろした。
「足もとがこれだから、ここで失礼します」
短い袴も濃色で、足のこしらえは、すっかり旅人のそれだ。
「飲むかい?」と、政次は、自分でも思いがけなく、そう言った。
由兵衛の顔が、あまりに青ざめていたせいだ。
「ありがたいですね」
差し出してやった茶碗を押し戴くようにする手には、手っ甲。本格的な旅の装束である。
「そうだ」と政次は言った。その目は神棚を見上げる。「あんなことを、しちゃいけねえ」
「あんなこと、とは」
「山吹色の丸いもののことよ」と言いながら、神棚に身を伸ばしかける。
「ああ、いや」と、由兵衛はそれを押しとどめ、「お金のことを言っているなら、どうか受け取ってください」
「しかし」
「政次さん、あなたは私の恩人だから。……あ、いい、いい。どうかそのまま。どうか」と、言う動きもしぐさも、本気としか見えない。
「むう……」と言いながら、政次は、どうしていいかわからない。
神棚から小判を取り出し、投げつけてやるのも合わないが、とはいえ、あの金をどうしたらいいものか。
「あれはあたしの、命の
「おれっちのところの酒は、貝に砂を吐かせるためだけのものだぜ」
「これが、あたしには、うまい」と言いながら由兵衛は、まんざら嘘でもなさそうに、茶碗を傾ける。「どうだろう、政次さん。頼みばかりでしかたのないあたしだが、もう一つ、頼みを聞いてくれないか」
「……」
「わけあって、あたしは江戸を出る。命の恩人とのちぎりに、一杯付き合ってくれないか」
「ちょっと待てよ。おれが何を、おまえとちぎるんでえ」
「あ、言葉が悪かったかな」と、由兵衛はうつむいた。「あたしというものがいたことを、覚えていて欲しい、と、そう言いたかったんだよ」
「なにぃ?」
ついさっき、安斎先生の療養所で聞いた噂が、政次の頭にうかぶ。そうなると、黙ってはいられない政次だが、何をどう言ったものか、言葉が浮かばない。
由兵衛は、そんな政次の先を抜くように、言う。
「あたしについて、あんたはこれから、いろんなことを聞くだろう。あたしは、それについては、何も言わないよ。ただ、由兵衛というものがいたことだけ、覚えていてほしい……とは、これは、あたしの勝手だね」
「ああ、勝手だ。こんな勝手なやつは、しばらく見ねえ」と言いながら、政次はどことなく、由兵衛を憎めない。「ってやんでい」と言いながら、酒瓶の蓋を開け、戸棚から深皿を取り、ひしゃくで一杯注ぐ。
くーっと一杯やって、ひとつ咳き込んで、由兵衛をにらむ。
茶碗を掲げた由兵衛と、目が合う。
由兵衛は立ち上がり、土間に閉じた傘を立てかけた。
「旅の邪魔になるので、これは置いて行かせてください」
分厚く渋を塗った艶のある傘に、紋はない。店で客に持たせるようなものではなく、由兵衛があつらえたものだろう。政次の長屋の隅では、まぶしいような品だった。
「行くのかい」
「ええ、行きます」
「雨がいっそう激しいぜ」
由兵衛は、言いながら、背中に回していた菅笠をかぶり、ゆっくりと緒を締めた。
「さようなら、政次さん」
そう言うと、何か迷いを吹っ切るように戸を開け、雨の中を突っ切っていった。
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