十
療養所の中はこざっぱりとしていた。
壁の一面が薬戸棚になっているほか、いくつもの大小のびいどろの瓶に、何やら得体の知れない色のついた水だか油が溜まっている。ほこり臭いような懐かしいようなにおいも、微かに漂っている。
戸がすっと開き、小娘が茶を運んできた。
「千春や、今日はもう帰ってよいぞ……。ああそうだ、これを持って行きなさい」と、懐から出したのは、薄い紙包み。「いつもの薬だよ」
千春と呼ばれた小娘は、包みを押し戴いて、
「せんせい、いつもありがとうございます」と、お辞儀をした。
「おとっつあんの具合はどうだ」
「おかげさまで、かなりよくなりましたようです」
「そうかそうか。近いうち、また診に行ってやろう」
千春が下がるのをにこにこと見ていた安斎先生は、茶を一啜りすると、軽く首を捻った。
「あの娘の父親は、鋳掛けの職人だったんだが、肺の臓をやられておってな。気の毒だが、もう、そう長くはあるまい」
何と言ってよいのかわからず、政次は茶を啜った。
「ときに、今朝、わしはある怪我人を診た」と安斎先生は、政次に目を据えた。「あちこち殴られたあざがあって、肩のところは小刀のようなものでえぐられた傷があった。が、まあ、縫うほどのものではなかった。そして朝から、ぷんと酒を聞こし召していてな。とはいえ、遊び人とは思えない
「はぁ」と政次は、湯呑みに目を落とす。
「酔った上での喧嘩かとも思ったが、いたっておとなしい怪我人でな。
まあ、酒飲みなどというものは、酔って気性が変わることは珍しくもない。
手当が終わると、こうきちんとお辞儀をしてな、
『本来ならば、どこの誰と名を名乗り、ご挨拶申し上げ、しかるべくお礼を差し上げるべきところではございますが』と。
まあ、あれは、《わけあり》だな」
そこまで聞いて政次は、安斎先生が次に何をしたかが、わかったような気がした。
「せんせい、
「人聞きの悪いことを言うな。わしは、ひとを尾行たりなどせぬよ。……人をして、尾行させた」そう言って、含み笑いをする。「これ、五郎や」と、庭に向かって呼ばわると、縁側の障子に影がさした。
「へい」と低い声がする。手に長い物が見えるのは、槍や刀ではない。庭ぼうきらしい。
すっと障子が細めに開いて、縁側に膝を揃えているのは、色の抜けたような刺し子を着た小柄な男。深い頬被りをしていてうつむいたままで、顔はよく見えない。
「庭男の五郎は、堀端で《行き倒れ》を拾ったおまえが、大吉に担がせて長屋で介抱したことを、知っておる」
「ええっ」と政次は驚いた。
「わしのことを、人が悪い、と言いたい心持ちはわかるが、まあ聞け。
おまえが心配しておった後家のおし津な。わしは、実はせんからある噂を聞いていた。どんな噂かは今は言わないが、それが姿を消したと、おまえの口から聞いたわしが、勝手にしたことだ」
「でも……」と政次は言いかけた。
おし津のことを安斎先生に話したのは、昨日の暮れのこと。飲んで別れるまで、政次は先生と、ずっといっしょに酒場にいた。だとすると――。政次にはわけがわからない。
五郎は縁側で、じっとしたまま、口を利かない。
「わしはな、この一件、何か、妙なものを感じるのだ」と言うと安斎先生は、五郎に向かって、微かに首を振った。
五郎が、低い声で話し始める。
中身は、こうだ――。
政次の長屋で灯りが消えたのを見て、五郎は療養所に戻った。見てきたことを、安斎先生に伝える。明けの六つに長屋にとって返した五郎は、政次の長屋から出てきた由兵衛を、尾行た。
由兵衛は、昨夜、政次に拾われた堀の端で、何かを探している様子だったという。
五郎は由兵衛に、わざとにどんと突き当たり、まだ傷の手当ても済んでいない由兵衛をつっころばしておいて、平謝りに謝った。そうしておいて療養所に案内したとのこと。
手当の済んだ由兵衛に付き添い、そう、いわば、尾行るかたちになった。
「で、その……由兵衛は店に、帰ったんですかい」と政次。
「いいや。どの店にも寄らず、日本橋のたもとの質屋で銀煙管……それがどうやら、土手での捜し物だったらしいのだがな、それを質に入れ、市中へ向かって、ふらりと歩いて行ったそうだ」
「どこへ」
「さあな」と、安斎先生は、宙を見る。
「えっと、五郎さん、あんたは、追わなかったのですか?」と政次。
五郎は、うつむいたまま、黙っている。
「深追いはするなと、言ってあった」と安斎先生。
「で、あっしに、どうしろと」
「どうしろとも言わない。ただ、酒場で聞いた通りだ。かわらばんの小僧は口を割ってはいなかったが、
「じゃあ、下手人は、あの由兵衛……?」
「そうは言っておらぬ」
「おれには、わからねえ」と、つぶやく政次。
気づくと、五郎は消えていた。
音もなく――そんなはずがあるとは思えないが、障子も、閉じられている。
「めしを食っていかぬか」という安斎先生の誘いを丁寧に断って、政次は療養所を出た。しょうじき、飯など食う気分ではなかったのである。
売れ残りの貝は、いい残しておいたとおり、千春が近所に配ったのだろう。空の盤台を左の肩に、天秤棒を小脇にかいこんで、政次は帰り道についた。
安斎先生の言った「犬より大きなもの」というのが、頭にちらつく。
たったと歩いていったが、ふと、素早く後を振り返ってみる。
五郎がまた、ついてきていはしないかと思うのだ。
誰もいない。
長屋へ戻った政次は、井戸端で足を洗った。
おし津の部屋に目をやるが、やはり変わった様子はない。
(いったいぜんたい、何がどうなっているんだ)
月はひとまわりふくらんだようだが、空がもやっている。
(これはひと雨、来るかもしれねえな)と、政次は思った。
せっかくの飯を断っておきながら、いまさら、腹がへっていることに気づいた。
足半〔あしなか〕をつっかけ、裏長屋から堀端に出て、二八そばを探したが、あいにく動いているらしく、いつもの場所に屋台はない。そうなると、ますます腹はへるもので、川べりの船宿のひとつ《柳や》の暖簾をくぐった。
浅蜊と葱をさっと煮立てた深川飯が自慢の店だが、政次は商売ものにしているだけに、浅蜊なんぞは見たくもない。
《柳や》のあるじは上方の出だそうで、甘辛く煮しめた油揚げに酢飯を詰めた、いなり寿司は、ここらでは一番の味だ、と政次は思っている。
いなり寿司を頬張り、濃い茶を飲んで、人心地ついた。
楊枝をつかいながら長屋へ戻ったとき、降り出した。
(言わないこっちゃねえ)と思いながら、一人でふっと笑ってみる。
まだ眠くはない。
明るい月が出ていたら、草双紙でもめくって見たいところだが、雨。
灯りの油もぜいたくはできない。
(眠れなくっても、もう、寝ちまうか)と、寝転がった。
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