魚三の軒のわきに、天秤棒を立てかけ、縄のれんをくぐる。

 土間の左手、安斎先生がいる。

「せんせい」

「うむ。早かったな。して、賞金は、誰かな」

「やくざの平佐に、つかまりましたが」

「おお、平佐か!」

 ほっほ、と笑い声を上げ、安斎先生はあたり卓をねめ回す。

 ぶつぶつ言いながら、いくつもの銭が、安斎先生に集まってくる。

「なんですか、これあ」

「いやなに、誰がおまえを見つけるか、賭をした」

「え?」

 戸惑い、きょろきょろする政次に、じょうれんの一人が、

「よりにもよって、平佐につかまって、なんてな。見そこなったい」

 銀も混ざってはいたが、ほとんどは銭。一文、四文、それでもざっとした山だ。安斎先生は筒袖でそれをかき集め、かーっと笑った。

「わたしに一本、そして政次にも、いっぱいやってくれ」と大声を出す。

「せんせい、あっしが来る来ないの、賭け事にしてはいけません。何があったんですか」

「まあ、まあ」と、酒を含むのだ。

 政次も出された冷やをじっと見る。ぐい飲みから、ぷっくり盛り上がった酒は、なんだかいい飴色をしていて、それはうまそうだ。

 口を寄せて、一口含んでみる。

(いけない。おれぁ、やっぱり、下戸だ)と政次は思う。

 安斎先生は、おそらくは鮪の中落ちだろう、牡丹色の魚を鉢のふちに寄せ、葱をからめ、箸の先でつまんで、口に運ぶ。

 目尻をにいぃと下げて、尖らせた口に、酒を持っていく。

「せんせい。おれを探しているわけは、なんなんで」

「声を立てるな」

「え?」

「黙って、飲め」

「飲めたって、おれぁ」と、言いかけ、政次は(しょうがねえや)とも思う。(このせんせいにかかれば、おいらが、何を言ったって)と、思うので、苦手な酒を、なめる。

 店の戸が、がっと開き、入ってきたのは《かわらばん》の丁稚の、名前はしらない、なにがしだ。

「てえへんだよ、てえへんだよ、てえへんだよ」と、尻上がりに。

「なあにがてえへんだ?」と誰か。

「これはまだ、紙には載らねえ、てえへんだ。もしかすっと、明日にも明後日にも、載らねえかもな。……あ、冷たい酒を、いっぺえください」

 みな、心持ちは前のめりになるが、こいつに話を聞き込むのもしゃくなので、そしらぬ顔をしている。が、誰かは、我慢できないものがいる。

「てえへんてえへんて言いやがるが、なにが、てえへんなんでよ」

「うん」と、丁稚は、出てきた酒をすすると、頭を上げて、周りを見わたす。「人形町の大店でな、人死ひとじにがあった」

「人死にくらい、どこの家でもあらあ」

「ただの人死にじゃねえやい。……人殺しだ」

 あたりはちょっと、ざわつく。

「どういうことでい」と、誰か。

「まあ、待ちな」と、丁稚。

「どこの店でい」と、誰か。

「いいから、待ってくれ。飲ませてくれ」と、丁稚。

 ふつう、橋のたもとなどで《よみうり》を売る連中は、深い編み笠をかぶって落ち着いたものだが、版元のこの丁稚は、まるでおっちょこちょいだ。試し刷りを手に、酒場に飛び込んできては、わめきたてる。

 とはいえ丁稚とはいえ、よみうり屋となれば、ひとつ格が違うので、身なりこそ木綿のごわごわしたものを着ていても、いわゆるそこらの職人とは違うし、本人もそのつもり。

「おれが飲ませてやるから、はやく語れよ」というやつもいる。

 丁稚は、かけつけの二杯を飲んだかと思うと、あたりを見回して、話し始めた。

「どの店とは、今んところ、おれの口からは言えねえ。ただ、人形町の、ある大店おおだなで、女のしとが、死んだ。

 言うなよ? ここからは言うなよ?

 奥の部屋で死んでいたのだから、盗賊ごときのしわざではねえと、言われている。

 わかるか? つまりぁ、下手人は、身内ということだ……」

 丁稚はここで、話を切る。

「どういうような、そう……やられかた、だったのかい」と誰か。

「うん。めった斬りだとさ」

 酒飲みの一同、顔を伏せて、じっとする。

 茶々を入れるやつがいた。

「おう。かわらばんのは、その様子に材を取って、書くのが仕事じゃねえのか。ここで、うっとり飲んでいて、どうする」

「あ、そう来るかね。そうか。そうだね。いけないね。おれは、口をつぐむことにするよ」

 すねてしまったのか、あるいはそういうふりか。

 おおう、というような嘆声が混じり、茶々を入れたやつをなじる声もあったが、どちらかと言えば、もとの通りである。

 政次も、もちろん、聞いていた。

 いやあな、気が、する。

 人形町と言えば、ゆうべ泊めてやった由兵衛が、浮かばないはずは、ない。

 くっとあおった酒に「けほん」とむせて、目を挙げると、安斎先生が、見ていた。

「ときに政次、天秤棒は持ってきたか」

「へい。言われた通りに」

「ならよい。これをやったら」と安斎先生は枡を掲げ、「腰を上げるとするか」

「棒が何か、関係あるんで?」

「どうということもないが、商売道具だ、たいせつに持っていろ」

「そりゃあ、たいせつにはしていますが」

「端を持って振り回せば、犬ころより大きなものも、追い払えるだろう」

「……」

 また唐突に、物騒なことを言い出すことだ、と政次は思った。

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