九
魚三の軒のわきに、天秤棒を立てかけ、縄のれんをくぐる。
土間の左手、安斎先生がいる。
「せんせい」
「うむ。早かったな。して、賞金は、誰かな」
「やくざの平佐に、つかまりましたが」
「おお、平佐か!」
ほっほ、と笑い声を上げ、安斎先生はあたり卓をねめ回す。
ぶつぶつ言いながら、いくつもの銭が、安斎先生に集まってくる。
「なんですか、これあ」
「いやなに、誰がおまえを見つけるか、賭をした」
「え?」
戸惑い、きょろきょろする政次に、じょうれんの一人が、
「よりにもよって、平佐につかまって、なんてな。見そこなったい」
銀も混ざってはいたが、ほとんどは銭。一文、四文、それでもざっとした山だ。安斎先生は筒袖でそれをかき集め、かーっと笑った。
「わたしに一本、そして政次にも、いっぱいやってくれ」と大声を出す。
「せんせい、あっしが来る来ないの、賭け事にしてはいけません。何があったんですか」
「まあ、まあ」と、酒を含むのだ。
政次も出された冷やをじっと見る。ぐい飲みから、ぷっくり盛り上がった酒は、なんだかいい飴色をしていて、それはうまそうだ。
口を寄せて、一口含んでみる。
(いけない。おれぁ、やっぱり、下戸だ)と政次は思う。
安斎先生は、おそらくは鮪の中落ちだろう、牡丹色の魚を鉢のふちに寄せ、葱をからめ、箸の先でつまんで、口に運ぶ。
目尻をにいぃと下げて、尖らせた口に、酒を持っていく。
「せんせい。おれを探しているわけは、なんなんで」
「声を立てるな」
「え?」
「黙って、飲め」
「飲めたって、おれぁ」と、言いかけ、政次は(しょうがねえや)とも思う。(このせんせいにかかれば、おいらが、何を言ったって)と、思うので、苦手な酒を、なめる。
店の戸が、がっと開き、入ってきたのは《かわらばん》の丁稚の、名前はしらない、なにがしだ。
「てえへんだよ、てえへんだよ、てえへんだよ」と、尻上がりに。
「なあにがてえへんだ?」と誰か。
「これはまだ、紙には載らねえ、てえへんだ。もしかすっと、明日にも明後日にも、載らねえかもな。……あ、冷たい酒を、いっぺえください」
みな、心持ちは前のめりになるが、こいつに話を聞き込むのもしゃくなので、そしらぬ顔をしている。が、誰かは、我慢できないものがいる。
「てえへんてえへんて言いやがるが、なにが、てえへんなんでよ」
「うん」と、丁稚は、出てきた酒をすすると、頭を上げて、周りを見わたす。「人形町の大店でな、
「人死にくらい、どこの家でもあらあ」
「ただの人死にじゃねえやい。……人殺しだ」
あたりはちょっと、ざわつく。
「どういうことでい」と、誰か。
「まあ、待ちな」と、丁稚。
「どこの店でい」と、誰か。
「いいから、待ってくれ。飲ませてくれ」と、丁稚。
ふつう、橋のたもとなどで《よみうり》を売る連中は、深い編み笠をかぶって落ち着いたものだが、版元のこの丁稚は、まるでおっちょこちょいだ。試し刷りを手に、酒場に飛び込んできては、わめきたてる。
とはいえ丁稚とはいえ、よみうり屋となれば、ひとつ格が違うので、身なりこそ木綿のごわごわしたものを着ていても、いわゆるそこらの職人とは違うし、本人もそのつもり。
「おれが飲ませてやるから、はやく語れよ」というやつもいる。
丁稚は、かけつけの二杯を飲んだかと思うと、あたりを見回して、話し始めた。
「どの店とは、今んところ、おれの口からは言えねえ。ただ、人形町の、ある
言うなよ? ここからは言うなよ?
奥の部屋で死んでいたのだから、盗賊ごときのしわざではねえと、言われている。
わかるか? つまりぁ、下手人は、身内ということだ……」
丁稚はここで、話を切る。
「どういうような、そう……やられかた、だったのかい」と誰か。
「うん。めった斬りだとさ」
酒飲みの一同、顔を伏せて、じっとする。
茶々を入れるやつがいた。
「おう。かわらばんのは、その様子に材を取って、書くのが仕事じゃねえのか。ここで、うっとり飲んでいて、どうする」
「あ、そう来るかね。そうか。そうだね。いけないね。おれは、口をつぐむことにするよ」
すねてしまったのか、あるいはそういうふりか。
おおう、というような嘆声が混じり、茶々を入れたやつをなじる声もあったが、どちらかと言えば、もとの通りである。
政次も、もちろん、聞いていた。
いやあな、気が、する。
人形町と言えば、ゆうべ泊めてやった由兵衛が、浮かばないはずは、ない。
くっとあおった酒に「けほん」とむせて、目を挙げると、安斎先生が、見ていた。
「ときに政次、天秤棒は持ってきたか」
「へい。言われた通りに」
「ならよい。これをやったら」と安斎先生は枡を掲げ、「腰を上げるとするか」
「棒が何か、関係あるんで?」
「どうということもないが、商売道具だ、たいせつに持っていろ」
「そりゃあ、たいせつにはしていますが」
「端を持って振り回せば、犬ころより大きなものも、追い払えるだろう」
「……」
また唐突に、物騒なことを言い出すことだ、と政次は思った。
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