昼七つからの商いでは遅く、いくらも売れはしないが、とはいえ、おやつ時から呼ばわるのも政次の好むところではないので、ゆっくりと始めることにした。

 八百新が今日は買ってくれないことはわかっているので、南へと向かう。

「あさりぃ、しじみぃ」と呼ばわる。

 いくらかの商売をしながら次の橋へさしかかろうと言うとき、

「おい」と声をかける者がいた。

 懐手をしたそいつは、平佐へいざという遊び人だ。

 もっとも、遊び人などというのは、ぜいたくな呼び名で、いわばごろつき。何を生計にしているのか、政次などにはわからないが、ふだつきのちんぴらだ。

「おめえ、佐賀町の政次だな」

「うん」

「せんせいが、探してたぜ」

「先生って、安斎先生かい」

「おう。あのじじいだ」

「先生が、おれを、かい?」

「そうだ。ぼてふりの政次をめっけたら、療養所に来るように、ってよ」

(どういうことだろう)と考えた。こんなことは、ない。まして、どうして、こんなやくざものに、伝言をしたものだろう。

 政次がぽかんとしていると、

「やいやい。つまりは、おれがめっけたってことらしいな。はやく行きやがれ」

「行くには行くけど、話が見えねえ」

「見えるが見えるまいが、おれにはかかりねえ。はやく行け。で、あれだ、おめえは三百文だ」

「さんびゃくもん?」

「おめえを見つけたやつには、三百文という賞金を、先生が、かけた」

「え?」

「うるせい。はやく出しなよ」

「なんで、おれが」

「先生が、そう言っていなさるんだよ。政次を見つけたやつは、三百文とりあげて、療養所に来るように言えって、な。なんせ、急ぎなんだろうがよ」

「そんなら急ぐけど、おれはいま、三百は、ねえよ」

「ったく、気のもめる野郎だな。いくらならあるんでい」

 いかに平佐のようなやくざものでも、安斎先生の名前を騙るとも思われないので、政次は大人しく財布を差し出した。夕方のあきないの五十文足らずの銭が、じゃらじゃらと出てくるのを、平佐は両手に受け、

「せこ、とはこのことだな。まあ、あとは先生の借りにしといてやら。とにかく、おまえ、急げな」と、言うと、肩をいからせて去っていった。

 平佐のようなやくざにも触れを出して探しているというのは、これはただごとではないかもしれない、と政次は思った。

 橋を渡って、急ぐ。


 療養所には、初めて来た。

 思っていたより、立派だ。

 少し気後れがした。

 つつじのつぼみがふくらんでいる垣根のこちらがわから、

「政次でございますが、せんせいは」と呼ばわってみた。

 返事は、ない。

 同じことを言うために、息を吸い込んだとき、戸ががらっと開いて、小さな女の子が飛び出してきた。

 黄色い八丈絹の着物に、胸高に帯を締めた、小娘だ。

「政次さんですか」

「へい、そうです。せんせいが、お呼びだと」

 小娘は垣根の側まで小走りで近づき、

「ついせんまで、先生はお待ち申しておりましたが、いまは出ております」

「出ているってえと、急な病人なんかで」

「いいえ」と言いながら小娘は、眉根を寄せた様子。

「じゃあ、近所へ、その……飲みに?」

 小娘は、こっくりとうなずく。

「いつもの、と言えばわかるから、と申しておりました」

「へい」と言いながら、思い浮かべるのは《魚三》だ。「じゃあ、急ぎます」

 と、政次はきびすを返そうとした。そこへ、

「少々、お待ち下さいますよう。おわたしするものがございます」と、言うと小娘は、襟元に手を入れ、「これを」

 薄い、書状である。


  政次どの

   いそぎて、こられよ。

   商売のとちゅうならば、

   ものは、道具とともに療養所においてゆかれしとぞ。

   棒手のみ、振ってこられよ。

   待つ。

    安斎


 小娘は、戸惑ったような顔で見上げている。

 政次は、

「おじょうちゃん、せんせいの指図にあるから、ここに貝を置いて行く。これあ、ただでいいけれど、このままでは悪くなるといけねえから、先生の名前で、近在にでも分けてやってくれないか。ともかく、おれは、いそぐ」

 小娘は賢そうなので、これでじゅうぶんだと思った。

 政次は、先生の指図の通り、天秤棒だけを担いで、走った。

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