八
昼七つからの商いでは遅く、いくらも売れはしないが、とはいえ、おやつ時から呼ばわるのも政次の好むところではないので、ゆっくりと始めることにした。
八百新が今日は買ってくれないことはわかっているので、南へと向かう。
「あさりぃ、しじみぃ」と呼ばわる。
いくらかの商売をしながら次の橋へさしかかろうと言うとき、
「おい」と声をかける者がいた。
懐手をしたそいつは、
もっとも、遊び人などというのは、ぜいたくな呼び名で、いわばごろつき。何を生計にしているのか、政次などにはわからないが、ふだつきのちんぴらだ。
「おめえ、佐賀町の政次だな」
「うん」
「せんせいが、探してたぜ」
「先生って、安斎先生かい」
「おう。あのじじいだ」
「先生が、おれを、かい?」
「そうだ。ぼてふりの政次をめっけたら、療養所に来るように、ってよ」
(どういうことだろう)と考えた。こんなことは、ない。まして、どうして、こんなやくざものに、伝言をしたものだろう。
政次がぽかんとしていると、
「やいやい。つまりは、おれがめっけたってことらしいな。はやく行きやがれ」
「行くには行くけど、話が見えねえ」
「見えるが見えるまいが、おれにはかかりねえ。はやく行け。で、あれだ、おめえは三百文だ」
「さんびゃくもん?」
「おめえを見つけたやつには、三百文という賞金を、先生が、かけた」
「え?」
「うるせい。はやく出しなよ」
「なんで、おれが」
「先生が、そう言っていなさるんだよ。政次を見つけたやつは、三百文とりあげて、療養所に来るように言えって、な。なんせ、急ぎなんだろうがよ」
「そんなら急ぐけど、おれはいま、三百は、ねえよ」
「ったく、気のもめる野郎だな。いくらならあるんでい」
いかに平佐のようなやくざものでも、安斎先生の名前を騙るとも思われないので、政次は大人しく財布を差し出した。夕方のあきないの五十文足らずの銭が、じゃらじゃらと出てくるのを、平佐は両手に受け、
「せこ、とはこのことだな。まあ、あとは先生の借りにしといてやら。とにかく、おまえ、急げな」と、言うと、肩をいからせて去っていった。
平佐のようなやくざにも触れを出して探しているというのは、これはただごとではないかもしれない、と政次は思った。
橋を渡って、急ぐ。
療養所には、初めて来た。
思っていたより、立派だ。
少し気後れがした。
つつじのつぼみがふくらんでいる垣根のこちらがわから、
「政次でございますが、せんせいは」と呼ばわってみた。
返事は、ない。
同じことを言うために、息を吸い込んだとき、戸ががらっと開いて、小さな女の子が飛び出してきた。
黄色い八丈絹の着物に、胸高に帯を締めた、小娘だ。
「政次さんですか」
「へい、そうです。せんせいが、お呼びだと」
小娘は垣根の側まで小走りで近づき、
「ついせんまで、先生はお待ち申しておりましたが、いまは出ております」
「出ているってえと、急な病人なんかで」
「いいえ」と言いながら小娘は、眉根を寄せた様子。
「じゃあ、近所へ、その……飲みに?」
小娘は、こっくりとうなずく。
「いつもの、と言えばわかるから、と申しておりました」
「へい」と言いながら、思い浮かべるのは《魚三》だ。「じゃあ、急ぎます」
と、政次はきびすを返そうとした。そこへ、
「少々、お待ち下さいますよう。おわたしするものがございます」と、言うと小娘は、襟元に手を入れ、「これを」
薄い、書状である。
政次どの
いそぎて、こられよ。
商売のとちゅうならば、
ものは、道具とともに療養所においてゆかれしとぞ。
棒手のみ、振ってこられよ。
待つ。
安斎
小娘は、戸惑ったような顔で見上げている。
政次は、
「おじょうちゃん、せんせいの指図にあるから、ここに貝を置いて行く。これあ、ただでいいけれど、このままでは悪くなるといけねえから、先生の名前で、近在にでも分けてやってくれないか。ともかく、おれは、いそぐ」
小娘は賢そうなので、これでじゅうぶんだと思った。
政次は、先生の指図の通り、天秤棒だけを担いで、走った。
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