目が覚めたのは、暁のころである。四半刻もすれば明け六つの鐘が鳴るかと思われた。いつもと違う寝場所にふと戸惑ったが、墨を流したような薄暗がりに透かしてみて、由兵衛がじっと寝ているさまを見て、

(ああ、そうか)とゆうべを思い出す。まだ寝ていたいとも思うのだが、なんだが胸が騒ぐ。政次はがばと身を起こし、音を立てないようにかまちまで這って出ると、そおっと戸を開けた。そうしておいてから、天秤棒と盤台を静かに外へ運び出す。

 河岸はもう、動いているはずだ。ゆっくり歩いても、明け六つには着くだろう。安い鰹があればいいのだが、と思いながら、政次は井戸端に立った。

 汲んだ水でさっと顔を洗い、口をすすぐ。

 おし津の戸に目が行くが、変わりはない。

(はたして戻ってきたものか)と考えるが、夜中に戻るはずもない。

 ふっと気づいたのは、安斎先生が描いた、二の腕の蜘蛛の巣だ。

 濃い墨のせいで、まだそのかたちは見えるが、寝ている間にこすれているのも当然。

(こんなものを、河岸の連中に見られた日にゃあ、どんないやみを言われるかわからない)と思うと政次は、濡れた手でそこをこすった。ちょっともったいない気もした。

 稲荷の前で、軽く手を合わせ、路地を、抜ける。


 河岸には鰹がいくつも揚がっていた。とはいえ、一両とこそしないものの、どれもおしなべて四分。銭にすれば、千枚一貫文。味噌屋のおやじから預かった五百しかないが、半身にしてくれとも言えない。こまったなあと思って立ち尽くしている政次に、《魚勘》の番頭の久三郎くさぶろうが、

「持って行きてえって、顔をしてんな」

「ああ、持って行きてえ」

「もって行きな。初の気分も、最後んなっちゃうぜ」

「持って行きてえが、銭がない」

「いくらでもいいぜ」

「六枚」

「なにぃ? 五百文にもたりねえじゃねえか」

「それっきゃ、ない」

「ってやんでえ」と言いながら、久三郎も上州のいなかから出てきた苦労人だ。「持ってけ」と言いながら、ぷいと横を向いた。

 政次は百文銭六枚を置き、それでもなるべく型のいいのをと選んでつかみ上げ、盤台に載せる。

 財布は空になってしまったが、貝の方は、つけで買える。重さのあんばいの悪い天秤棒を肩に《貝新》の店先へ回ると、覚悟していたことであったが、からかわれた。

「へー。政次に鰹はつけでは買えめえ。まあ、せいぜい、いい商いをしな」と、今度はうしろの盤台がいっぱいになった。

 行きよりもいそいで、長屋に戻る途中に、森下の味噌屋に回ることにする。

 明けの五つは味噌屋には早いだろうが、あのおやじなら、店を開けているだろう。

 果たして、味噌屋は店を開けていて、政次は鰹を納めた。

 おやじは鰹を見るなり顔をほころばせ、

「これあ、いい鰹だね」と喜んだ。「五百じゃあ、足りなかったろう」

 商売っ気のない政次は、つまりはこれで義理は済んだのだが、それでも頭をかくしかない。

 おやじはまた味噌樽の間を縫っていって、帳場から銭を取り出すと、百文銭を五枚取り出して、政次に差し出した。

「まいど」

 昨日と合わせて十一枚なら、政次には五枚、四百文のもうけとなる。

 ゆうべの仕込みは無いから、これから長屋に戻り、剥き身を作って暮れかたに商いをすれば、まあこれで、商売は《回っている》ほうだと言える。


 部屋に戻ると、由兵衛の姿は、なかった。

 しばらく出してもいなかった、しぶたれた布団屏風が部屋の隅にきちっと押しつけられてあり、見るまでもないだろう、中にはきちんと夜具が畳まれている様子。

 何故とはわからないが、少しばかり、さびしい心持ちがした。

「ちっ」と、我知らず舌打ちも出た。

 前後の盤台に振り分けておいた浅蜊を大桶にあけて、握った塩を一振りし、瓶から酒を注いだ。

 酒も煙草もやらない政次には、こんなときが手持ち無沙汰だ。暁かたから一働きをしての朝寝も、ない。

(ああ、そうだ)と思い、江ノ島の本を開こうとしたとき、具合が違うことに気づいた。

 ごろんとした感じがあり、あれ、と思う間もなく、本の中から畳に落ちたのが、懐紙ふところがみの塊。こわごわと手に取り、開けてみると、小判である。

 思わず、身をのけ反らした政次だった。

 懐紙に、火鉢の炭を水で湿したものか、かすれた文字で書いてあるのは、


  政次さん江

   ゆうべのご恩は忘れもしませぬ。

   かくは酒代にて、お納めくださいませ。

    萬屋由兵衛


 政次は額に、まだ洗ってもいない手を額にぱちんと当て、はちまきを外しながら、

「むーん」と、うなった。

 ともあれ、小判を財布に入れるわけにもいかず、きょろきょろしたあげく、神棚に上げた。

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