七
目が覚めたのは、暁のころである。四半刻もすれば明け六つの鐘が鳴るかと思われた。いつもと違う寝場所にふと戸惑ったが、墨を流したような薄暗がりに透かしてみて、由兵衛がじっと寝ているさまを見て、
(ああ、そうか)とゆうべを思い出す。まだ寝ていたいとも思うのだが、なんだが胸が騒ぐ。政次はがばと身を起こし、音を立てないようにかまちまで這って出ると、そおっと戸を開けた。そうしておいてから、天秤棒と盤台を静かに外へ運び出す。
河岸はもう、動いているはずだ。ゆっくり歩いても、明け六つには着くだろう。安い鰹があればいいのだが、と思いながら、政次は井戸端に立った。
汲んだ水でさっと顔を洗い、口をすすぐ。
おし津の戸に目が行くが、変わりはない。
(はたして戻ってきたものか)と考えるが、夜中に戻るはずもない。
ふっと気づいたのは、安斎先生が描いた、二の腕の蜘蛛の巣だ。
濃い墨のせいで、まだそのかたちは見えるが、寝ている間にこすれているのも当然。
(こんなものを、河岸の連中に見られた日にゃあ、どんないやみを言われるかわからない)と思うと政次は、濡れた手でそこをこすった。ちょっともったいない気もした。
稲荷の前で、軽く手を合わせ、路地を、抜ける。
河岸には鰹がいくつも揚がっていた。とはいえ、一両とこそしないものの、どれもおしなべて四分。銭にすれば、千枚一貫文。味噌屋のおやじから預かった五百しかないが、半身にしてくれとも言えない。こまったなあと思って立ち尽くしている政次に、《魚勘》の番頭の
「持って行きてえって、顔をしてんな」
「ああ、持って行きてえ」
「もって行きな。初の気分も、最後んなっちゃうぜ」
「持って行きてえが、銭がない」
「いくらでもいいぜ」
「六枚」
「なにぃ? 五百文にもたりねえじゃねえか」
「それっきゃ、ない」
「ってやんでえ」と言いながら、久三郎も上州のいなかから出てきた苦労人だ。「持ってけ」と言いながら、ぷいと横を向いた。
政次は百文銭六枚を置き、それでもなるべく型のいいのをと選んでつかみ上げ、盤台に載せる。
財布は空になってしまったが、貝の方は、つけで買える。重さのあんばいの悪い天秤棒を肩に《貝新》の店先へ回ると、覚悟していたことであったが、からかわれた。
「へー。政次に鰹はつけでは買えめえ。まあ、せいぜい、いい商いをしな」と、今度はうしろの盤台がいっぱいになった。
行きよりもいそいで、長屋に戻る途中に、森下の味噌屋に回ることにする。
明けの五つは味噌屋には早いだろうが、あのおやじなら、店を開けているだろう。
果たして、味噌屋は店を開けていて、政次は鰹を納めた。
おやじは鰹を見るなり顔をほころばせ、
「これあ、いい鰹だね」と喜んだ。「五百じゃあ、足りなかったろう」
商売っ気のない政次は、つまりはこれで義理は済んだのだが、それでも頭をかくしかない。
おやじはまた味噌樽の間を縫っていって、帳場から銭を取り出すと、百文銭を五枚取り出して、政次に差し出した。
「まいど」
昨日と合わせて十一枚なら、政次には五枚、四百文のもうけとなる。
ゆうべの仕込みは無いから、これから長屋に戻り、剥き身を作って暮れかたに商いをすれば、まあこれで、商売は《回っている》ほうだと言える。
部屋に戻ると、由兵衛の姿は、なかった。
しばらく出してもいなかった、しぶたれた布団屏風が部屋の隅にきちっと押しつけられてあり、見るまでもないだろう、中にはきちんと夜具が畳まれている様子。
何故とはわからないが、少しばかり、さびしい心持ちがした。
「ちっ」と、我知らず舌打ちも出た。
前後の盤台に振り分けておいた浅蜊を大桶にあけて、握った塩を一振りし、瓶から酒を注いだ。
酒も煙草もやらない政次には、こんなときが手持ち無沙汰だ。暁かたから一働きをしての朝寝も、ない。
(ああ、そうだ)と思い、江ノ島の本を開こうとしたとき、具合が違うことに気づいた。
ごろんとした感じがあり、あれ、と思う間もなく、本の中から畳に落ちたのが、
思わず、身をのけ反らした政次だった。
懐紙に、火鉢の炭を水で湿したものか、かすれた文字で書いてあるのは、
政次さん江
ゆうべのご恩は忘れもしませぬ。
かくは酒代にて、お納めくださいませ。
萬屋由兵衛
政次は額に、まだ洗ってもいない手を額にぱちんと当て、はちまきを外しながら、
「むーん」と、うなった。
ともあれ、小判を財布に入れるわけにもいかず、きょろきょろしたあげく、神棚に上げた。
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