橋まで送ろうという政次を押しとどめ、安斎先生が清澄通りをひょいひょいと去っていく背中をしばらく見送ったのは、暮れの六つをとうに過ぎたころ。

 政次はきびすを帰して、堀を渡った。

 月の小さい夜のことだったが、勝手知ったる道なので、踏み外す心配もない。

 懐の中で、痩せてしまった財布をぎゅっと握ってみて、政次は、

(はぁ)とため息をついた。

 なじみの貝屋ならともかく、他の魚を《かけ》では品物を卸してもらえない政次などのような棒手振には、

《宵越しの金》は、実に《いいもの》なのである。

(ええい。考えたってはじまらねえ。それよか、あの江ノ島の絵図を、寝ちまう前にもっぺん見たいものだ。油はまだ、わずかにあったかな)

 その時、犬が吠え掛かろうとするようなうなり声が、聞こえた。

 犬は棒手振の仲間では、ない。

(やろうめ!)と、まだ姿の見えないそれに、政次は身構えた。が、どうも、犬ではない。

 人だ。

 柳の下の、堀に落ちかかって少し地面の崩れたところに、頭を下にして、ねじれ、伸びている人影がある。

「おいっ!」と言いながら駆け寄ると、うなり声の合間には、ふうふうと荒い息をしているのは、若い男だ。

 履き物は見当たらず、泥にまみれた白足袋の足を、もがくようにじりじりと動かしている。

「どうなすった」と声を掛けながらざっと様子を見わたすと、着物の肩口が割け、血がにじんでいる。が、手足は満足についているようだし、左側しか見えないが、顔に傷もない。

 夜目にははっきり見えないが、その白いおもては悪人相とも見えない。

 すると、ぷうん、と来た。

(こいつ、酔っていやがる)

 見たところ、どこかの商家の手代か番頭とでもいう身なり。蹴飛ばして、うっちゃっておいても、やがて目覚めるのだろうが、肩口の傷が気にかかる。こういうことを見なかったことにできないのも、政次。

 傷に触れないようにそうっと胴に腕を回すが、からだはぐんにゃりと、持ち上がるものではない。

「めんもくもないねぇ……」と、男は唄の稽古でもしているように、なんだか節のついたか細い声で。

「ってやんでい。おまい、起きられるか」

「ああ、だめなようだよ」

「だめったって……」

「あたしのことなんか、うっちゃっておいておくれ」

「そうはいくか」

 と言ったものの、天秤棒ならいざ知らず、ぐにゃぐにゃの酔っ払いのからだを担ぐようなわざは、政次には、ない。

(どうしたものかなぁ)と思っているところに、堀を渡って人影が来た。(ややこしいことになった)と、政次はつと身を屈めて、足音に耳を澄ます。

 しゃりしゃりと雪駄を引きずる音に、これはさむらいではないなと、ふと安心しながら暗がりに目を凝らすと、肩の上に四角い箱を担いだそれは、職人に違いない。もしやと思ったもしや、木場の木挽きの大吉だった。

 ひとのことは言えないが、愛想のない大吉に、なんと声をかけたものだろう、と考えるひまもなく、

「そこを来るのは、大吉さんかい? おれは、ぼてふりの政次だよ」と言った。

 しゃりしゃりの足音が、つっと止まり、

「ああ、おれだが……政次、そこで何してるんでい」

「行き倒れみたいなのに、出くわしちまった」

「……さむらいか?」

 さむらいならば、堀へ蹴込めとでもいう調子である。

「いや、わかい商人あきんどらしい」

「ここらの在のものか」

「それや、わからねえ」

 大吉は慌てる様子もなく近づいてきて、政次の横に身を屈める。こちらもぷうんと、酒が匂う。

「なあ、どうだろう、大吉さん。行き倒れを地元にほうって置くわけにもいかねえ。ともかくこいつは、おれっちで預かろうと思うんだが。運ぶのに、手を貸してくんめえか」

 大吉、すぐには答えず、肩の道具箱を地面にそうっと下ろしておいてから、行き倒れの様子をざっと見ている。

「おめえも、人がいいな」と、面白くもなさそうにそう言うと、着ていたはっぴを脱いでからげて政次に押しつけ、中の着物をぱっと肌脱ぎになった。

 政次はその目で見たことはないが、長さで十丈幅で二間もある材木のかたまりを、斜めに傾けておいてそこに上り、日がな大鋸でざっくざっくと切るという木挽きの仕事をしているというだけに、首から肩、そして背中の筋肉がすごい。

(これじゃまるで、仁王だな)

 大吉は、行き倒れた男の、着物が破れて血がにじんでいる方の腕をぱっと取り、傀儡(あやつり)でも扱うように、その腕を引いた。

 若い男は「うううう」とうめく。

「なによ大げさに」と、大吉は半笑いのような声で言い、軽々と浮いた若い男のからだを担いだ。「おれっちの道具箱は、政次、おめえが大事に持ってくれよ」

 政次は道具箱と半被はっぴを小脇に抱え、三人は、佐賀町の長屋へと。


 政次が板戸を開けた暗い土間で、どの部屋も作りはおおむね同じなんだからあたりまえのことだが、大吉は上がりかまちに見当をつけ、行き倒れのからだを横たえた。

「大吉つぁん」と政次が言うのを遮るように、

「今夜のこたあ、おれあ、しらねえぞ」

「ああ、おれもそれを言おうとしてた」

「この野郎の身分や在はしらねえが、かかりあいになるのはごめんだ」

「ああ、わかってる」

 と言いながら、政次は道具箱とはっぴを大吉に返す。

 着物を羽織って、襟元をぱんと引っ張った大吉は、返事もなく出て行こうとしたが、政次はそれを追って、

「大吉つぁん、ちょっと待ってくれ」

 頭には、おし津のことだ。

「うーん?」と振り返った大吉の、胸をあたりの空気を押すようなかたちで、井戸の端にいざなう。「なんでえ」

 ふと目をやったのはおし津の部屋だが、灯りは、ない。

「話が、あとさきになっちまって、ちょっとややこしくて困っちまうんだが」

「なんでい。ややこしいのは、おれ、ごめんだと言ったろう」

「そこの、それ、おし津さんのことでよ」

「む」と言ったとき、大吉は胴震いでもしたのか、肩の荷物箱の中で、ことんと音がした。「後家がどうした」

 政次は、手短に手短にと気をつけながら、朝からおし津がいないこと、大家に告げ口したこと、大吉に聞き込みをするよう命ぜられたことを、小声で話した。

「つまり、から言やあ、おれは何もしらねえな」と、大吉。「知らねえ、ってのは、そこの行き倒れのことを知らねえというのとは、違うぜ。おれっちの隣には、若後家が住んでいる、というほかに、なあんにも知らねえってこった」

 大吉も、長いせりふを言うのだな、と政次は感じた。

「いやあ、知らなくっても、まるで無理はないさ。ただ、壁一枚の隣で、何か妙なことでもありゃあ、大吉つぁんなら何か心当たりがあるかって」

「妙なことなんぞ、なかったぜ」

「じゃあ、どうだろう、おかみさんにも聞いてみてくれないか」

 また、大吉の道具箱が、ことんと鳴った。

「馬鹿言ってんじゃねえ」と言うと大吉は、その大きな身体を、膝のところでちょっと屈めて、政次に顔を寄せた。「あんな後家なんざ、おれぁ、はなからどうにも思ってやいねえがよ。かかぁの悋気ときたら、そりゃあ……」

「えっ?」と、独り者の政次である。

「なめくじかなんかが、たまに三味線でも弾いてやがるんだろって顔でもしていなけりゃ、おれぁ」

「う。わかんねえ」

「ちっ」と、口ではそう言いながら、何となく大吉の顔が、ほころんでもいるようである。「おめえも商いに励んで、せいぜい早く、所帯を持ちな」

 言い捨てて、行ってしまった。


 部屋に戻った政次は、行き倒れのからだを踏まないように、そっとかまちの端から上がると、安斎先生のようにはいかないので、かっちかっちと手間取りながら、まずは火鉢に火を入れる。何とか焚きつけると、手探りで灯りの皿をつきとめてそれを引き寄せ、油の芯に火を移す。

 水割りの酒なんぞはすっかり醒めてしまい、妙に冴え冴えとした気分。

 かまちの縁に、落っこちそうに伸びている行き倒れに目をやる。

 ようく目をすかすと、胸のあたりが上下している。

(死ぬことは、ねえな。よかった)と思いながら、一方で(おれはなにをしてるんだろう)と思う。

 安斎先生が置いて行った江ノ島の図絵を取り出し、眺めてみる。

(この、岩屋ってなあ、どうにもくすぐるなぁ)と思う。ようく見ると、禿頭の隠居みたいなのと、背の高い遊女が、その暗い岩の割れ目に吸い込まれていく様子。

 いつかは江ノ島遊山もしてみたいが、無理かなとも思う。

 ずずっと、板の間に薄縁が擦れる音がしたので目をやると、行き倒れが半分寝返ろうとしている。

「むーん」と呻いている。

「気が、ついたか」と、小さく声をかけると、

「ああ、すみません。……あんたぁ、いい人のようだ」と、むにゃむにゃ言っている。

 酒も覚めかけらしい。茶の一杯でも飲ませれば、いまにもしゃんとしそうだが、あいにく政次は、茶などは持っていない。

「水でも飲むか」と言ってみる。でもこいつなんかにや、長屋の井戸は飲ませられないな、と思い、買い水の瓶を念のため見てみるが、しばらくは水屋にも、声をかけていない。瓶が空っぽなのはせんからわかっている。

「水……水よりは」

「え?」

「酒……酒の一杯ももらえたら」

(何を言ってやがるんだ)とは思ったが、安斎先生も言っていた。

「深酒の覚めかけに、水はどうしてもいけない。水を飲むなら酒といっしょに飲むに限るので、覚めかけには、すこうしの酒、これしかない」

 政次は立っていき、台所から茶碗を取り出し、商売道具の酒にひしゃくを突っ込んで、一杯ついでやる。

 行き倒れは、様子を計っていたのだろう、政次が酒をつぎ、瓶に蓋をしたところで、弾みでもつけるようにからだを起こし、手まで差し伸べている。

「ほらよ」と手渡す茶碗を受け取るにも、傷があるほうの腕が駄目らしい。

 政次はいちど茶碗を置いて、相手のからだをちゃんと起こしてやり、無事である左手に茶碗を渡す。

 行き倒れは、口を付け、ちゅっと一口すすった。

 政次は、じっと、見ていたが、

「怪我の具合はどうでえ」

「ああ、たいしたことはありません」

(刀傷じゃあ、ねえようだけど……)と政次は思った。

 それにしても、男の身なりは、見れば見るほど、商家の手代か、見ようによっては若旦那。どこの店〔たな〕のものかはわからないが、夜になって戻らなければ、家では心配もしているに違いない。

「旦那ぁ、いったい……」と話しかけると、

「悪いがあなた、今夜はここで少し、休ませてもらえませんか」と、先を越された。

「そりゃあ、かまわねえが……」

「あいさつを忘れていました。あたしは人形町で小間物を扱う《萬屋よろずや》の由兵衛よしべえと言うものです。して、あなたさまは」

「おれは、政次」

「政次さん、あたしはこのご恩を一生忘れません」と、痛む腕を庇いながら居住まいを直し、空になった茶碗を脇へ置くと両手を突いてお辞儀をした。

 油の皿が、ジジ……と音をたててふすぼった。

「そこのかまちは、ごろごろしていけねえ。せめえところだが、もそっと、奥へお入りなすって」

「ああ、そうですか。ありがとうございます」と軽く頭を下げ、つと膝を立てる様など、どことなく、品がある。商人といえども、大店のものとなると、身のさばきもいいものだなあと、なんとなく政次は思った。

 板の間の汚い薄縁うすべりの上を膝でいざりながら、由兵衛は、

「ときに、見たところ商売ものとは思いますが、もう一杯だけ、その、お酒をいただけませんか」

(やれやれ)と思いながら政次は立って、茶碗になみなみ注いでやった。

 油が切れ、灯りが消えるのに任せると、軒下の明かり取りから十日目の月が射した。

 せんべい布団を由兵衛に貸してやったので、政次は手枕で仰向けになった。まだ虫も鳴かず、静かな夜である。やがて、とろとろと、眠ってしまった。

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