橋のたもとから大通りを少し行くと、《魚三うおさん》という酒場がある。棒手振たちが寄りつくよりは少しよい店で、ちかくの商家の番頭あたりが、日暮れ時に油を売ったり、隠居が、隠居どうしで出会う店だ。

 安斎先生は、安いのうまいの言いながら、大好きな店のようだが、なんのことはない、いつも政次が払うのである。

 安斎先生は、迷うこともなく《灘の酒》を冷やで頼み、まだ新しい枡が運ばれてくる。政次はいっそ水でよいのだが、酒場ではそうもいかない。《割り》を注文する。武蔵野の地酒を、上水の水で割ったものだ。

 およそなんでもあるのがこの店の自慢で、安斎先生は、あなごとはぜの天麩羅を取る。

(ああ、いいな……)と、政次は思う。

「いい浅蜊がありますよ」と、店の者は言うが、安斎先生は、かっかと笑って、

「浅蜊はけっこう。じゅうぶん、けっこう」

 政次は水酒を見下ろしながら、自分でもなんだかわからぬもやもやを、持てあます。

「おまえ、いくつだね」と、安斎先生がだしぬけに。

「六月に、二十四になります」

「いい歳だ、いい歳だ」

 何をどう答えても、ふわりとかわされるようで、それでいて何か、聞いておかなくてはならない気になる。政次は、《問う》ということが、自在にできたらどんなにいいだろうなと思いながら、どうしていいのかわからなかった。

「して、何があった?」と、安斎先生は、その時ばかりはきらりとした目を、政次に据えた。

「今朝のことです」と、するりと出てしまった自分の言葉に、政次は驚いていた。

 つらつらと、今朝からのことを、しゃべってしまった。


「その後家には、会ったことがある」と安斎先生は言った。「もっとも、後家になる前だがな。あれは、本所の、米屋の嫁であったよ。子を産さぬというので、家を出された」

「先生は、その……診てやったのですか?」

「わしは、診ない。生きる死ぬも診ないし、産まれる産まれないも診ない」

「でも、先生は、医者じゃあありませんか」

「医者だから、診ない。それあ、腹が痛いとか、骨を折ったとか、あるいは口の中も、診られないことはないよ。だけどなあ……」

 難しそうな顔をして、遠くを見ながら、店の娘に合図している。

 すぐに酒が、運ばれてくる。

 一口、含みながら、

「まあ、わしなどは、薮というやつよ。ふっふ。しかし、坊主よりはましだ」と言いながら、笑う。「しかしな、その後家は、気になるな」と、真顔になる。

「大家さんには、大吉にたずねてみろと言われてるんですが」

「たぶん、なんにもわかるまい」

「そうでしょうか」

「聞いたところ、身仕舞いをして、静かに出て行ったようだ。思うところあってのことだろう」

「でも、先生……」

「開いていた板戸の、二寸のことだろう?」

「あんなことは、これまでなかったから」

 安斎先生は、枡の角から冷や酒をすすり、軽く眉根を寄せた。懐から矢立を取り出し、

「書くものはあるが、書かれるものが、ない」

「よかったら、おれの腕に」

 安斎先生は、にやりと笑うと、筆先を酒で湿して、政次の腕を取った。

 なに、描くほどのことではない。こんや政次が家に戻ったら、屋根の隅から大きな蜘蛛の巣の、横糸だけを上手に解き、それをおし津の家の板戸の隙間に貼り付けるという、それだけのもの。夜中に誰かが出入りすれば、蜘蛛の糸が切れているのでそれと判るだろうという《からくり》ともいえないしかけだ。

 安斎先生、どうやら、酔いのまぎれに、いたずら心を起こしただけのようだ。

 しかし絵心もある安斎先生の蜘蛛とそれからその巣のようすは、すいすいとずいぶん流麗なもので、

「ああ、いつか銭があったら、こんな彫り物をしてみてえな」と、政次をほれぼれさせるのだった。

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