五
橋のたもとから大通りを少し行くと、《
安斎先生は、安いのうまいの言いながら、大好きな店のようだが、なんのことはない、いつも政次が払うのである。
安斎先生は、迷うこともなく《灘の酒》を冷やで頼み、まだ新しい枡が運ばれてくる。政次はいっそ水でよいのだが、酒場ではそうもいかない。《割り》を注文する。武蔵野の地酒を、上水の水で割ったものだ。
およそなんでもあるのがこの店の自慢で、安斎先生は、あなごとはぜの天麩羅を取る。
(ああ、いいな……)と、政次は思う。
「いい浅蜊がありますよ」と、店の者は言うが、安斎先生は、かっかと笑って、
「浅蜊はけっこう。じゅうぶん、けっこう」
政次は水酒を見下ろしながら、自分でもなんだかわからぬもやもやを、持てあます。
「おまえ、いくつだね」と、安斎先生がだしぬけに。
「六月に、二十四になります」
「いい歳だ、いい歳だ」
何をどう答えても、ふわりとかわされるようで、それでいて何か、聞いておかなくてはならない気になる。政次は、《問う》ということが、自在にできたらどんなにいいだろうなと思いながら、どうしていいのかわからなかった。
「して、何があった?」と、安斎先生は、その時ばかりはきらりとした目を、政次に据えた。
「今朝のことです」と、するりと出てしまった自分の言葉に、政次は驚いていた。
つらつらと、今朝からのことを、しゃべってしまった。
「その後家には、会ったことがある」と安斎先生は言った。「もっとも、後家になる前だがな。あれは、本所の、米屋の嫁であったよ。子を産さぬというので、家を出された」
「先生は、その……診てやったのですか?」
「わしは、診ない。生きる死ぬも診ないし、産まれる産まれないも診ない」
「でも、先生は、医者じゃあありませんか」
「医者だから、診ない。それあ、腹が痛いとか、骨を折ったとか、あるいは口の中も、診られないことはないよ。だけどなあ……」
難しそうな顔をして、遠くを見ながら、店の娘に合図している。
すぐに酒が、運ばれてくる。
一口、含みながら、
「まあ、わしなどは、薮というやつよ。ふっふ。しかし、坊主よりはましだ」と言いながら、笑う。「しかしな、その後家は、気になるな」と、真顔になる。
「大家さんには、大吉にたずねてみろと言われてるんですが」
「たぶん、なんにもわかるまい」
「そうでしょうか」
「聞いたところ、身仕舞いをして、静かに出て行ったようだ。思うところあってのことだろう」
「でも、先生……」
「開いていた板戸の、二寸のことだろう?」
「あんなことは、これまでなかったから」
安斎先生は、枡の角から冷や酒をすすり、軽く眉根を寄せた。懐から矢立を取り出し、
「書くものはあるが、書かれるものが、ない」
「よかったら、おれの腕に」
安斎先生は、にやりと笑うと、筆先を酒で湿して、政次の腕を取った。
なに、描くほどのことではない。こんや政次が家に戻ったら、屋根の隅から大きな蜘蛛の巣の、横糸だけを上手に解き、それをおし津の家の板戸の隙間に貼り付けるという、それだけのもの。夜中に誰かが出入りすれば、蜘蛛の糸が切れているのでそれと判るだろうという《からくり》ともいえないしかけだ。
安斎先生、どうやら、酔いのまぎれに、いたずら心を起こしただけのようだ。
しかし絵心もある安斎先生の蜘蛛とそれからその巣のようすは、すいすいとずいぶん流麗なもので、
「ああ、いつか銭があったら、こんな彫り物をしてみてえな」と、政次をほれぼれさせるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます