四
政次は部屋に戻り、剥いたあとの貝殻を置き水でざっと流して、ざるにあけた。そうしていくらか乾かしてから、仕入れの時に河岸へ持っていく。ちり箱に棄ててはいけない法はないのだが、商売のかすを、長屋のごみにするにはしのびないのだ。
ただでさえ、隣に住む
「夏場になると、生臭くっていけないねえ」などと、壁越しに軽いいやみを言うので、政次はなるべく、ひとの迷惑にならないように、心がけている。
うすべりを広げ、手枕をして横になった。
いつもなら、ゆるい眠気に襲われて、いい昼寝ができる時刻だ。しかし、どことなく胸騒ぎがして、眠るどころではない。
おし津の行方を心配しているからか? そうではない。思いがけずに見てしまった、女の一人所帯。なまめかしくもないが、なぜか目に残る。
三味線を包んだ錦。庭の朱い下駄。紫の煮詰まったような咲きかけのあじさいに、あの大きなまいまい。
まいまいは、貝の仲間と聞いたことがあるが、あんな面妖なもの、貝だろうか。
なんだか不思議な気分が、いつもと違う昼下がりなのであった。
寺子屋から戻った近所の餓鬼どもの声は、昼寝の邪魔にはならない。
ただただ、いやな胸騒ぎが、するのである。
それでも、眠ってしまった。
こつこつと、戸を叩く音に薄目を開けたとき、西に面した障子の金色で、すでに夕刻であることはわかった。
「いるぜ」と、声をかける。
すすっと板戸が開き、顔を突っ込んできたのは、安斎先生だった。
団子に結った白い髪に、山羊髭。歳はわからない。
ただこうして、十日に一度は政次の長屋にやってきては、あれこれとない世間話をし、そして、政次の商売道具の酒を、勝手に、ちびりちびりとやるのである。
政次は、酒はあまりやらない。ほとんどやらないし、まして家ではやらない。
飲めば飲めるのはわかっているが、銭がないのに加え、酔った自分がなんだか怖いのである。
安斎先生は、政次にしきりと、
「飲め飲め」と言う。「酒を貝に吸わせてどうする」と言う。
(ほっといてくれ)と政次は思うが、安斎先生を退けられないのには、わけがある。
政次はしがない棒手振だが、書く方はともかく、読みは達者である。
できることなら、一日中でも何かを読んでいたいのだが、世間の目もある。
「棒手振ふぜいが、ほんを読んでいるふりをしているよ」と言われるのもしゃくだ。
それにもまして、本などを買う銭もない。
そこをとっくに見越して、安斎先生は、ふところに、政次が大好きな《本》を携えて来る。
「いま、ここで読め」とか「講釈してやる」などとは言わない。
ただただ殺風景な政次の枕元に、ぽいと投げるのである。
本は、草双紙のこともあれば、芝居の台本の場合もある。政次がとりわけ好きなのは、図鑑のたぐいで、草木や鳥獣、魚類や虫などの本であれば、いつまでだって見ていられる。
安斎先生はそれを尻目に、土間に置いた
この日も安斎先生は、土間に雪駄を脱ぎ揃えたかと思うと、まだ身を起こしていない政次の枕元に、本を投げ出した。
土間に置いてある貝の桶を覗き込んだ様子で、
「今朝は売れたようだな」とつぶやくと、誰ことわることなく、酒の瓶の蓋を取っている。「火は、ないのか。そうか。そういう季節だな」などと、ぶつぶつ言いながら、勝手知ったる様子で棚から茶碗を取り、冷や酒を注いで、あぐらをかく。
政次は、本を手に取る。
口絵は、美しい、版画だ。
《江ノ島稚児ヶ淵岩屋の図》とあり、かぼちゃのような岩山の裾を、手に手に色とりどりの傘を持った遊女らしき女たちが、遊山している。
なかみ、は、どうやら、江ノ島の風土に関するもののようだ。
政次は、行ったことはもちろんないが、島のまわりでは太った蛤がずいぶん獲れるらしいと、これも安斎先生から、聞いたことがある。
政次は起き上がり、売れ残り――とは言っても、ほんとうはおし津に残しておいた――の浅蜊をひとつかみ、小さな土鍋に放り込む。安斎先生が手に取ったばかりのひしゃくで、五勺ほどの酒をかけ回し、
(さて)と思う。
安斎先生は横目で政次の動きを追いながら、ふっふと笑い、腰の袋から火打ち金を取り出す。火鉢の引き出しから柴を取り出し、懐から薄紙を取り出し、すでにかちかちとやっている。
政次は無言のまま、火鉢に五徳を突き刺して、土鍋をそこに載せる。
あうんと言うのではないが、いつものことである。
安斎先生の器用さはただごとではない、と、政次はいつも思っている。たちまち炭がつく。
「先生、こないだの黄表紙は、おいらには面白かった」と言いながら、政次は部屋の中で一番高い場所、神棚よりも高い場所に置いてあった本を取ろうとした。
「いい、いい。あれはおまえにやったものだ」
「でも」
「読んだなら、売るといい。百や二百にはなるだろう。ただし、この在所では駄目だぞ。神田までは歩け」
(百や二百で売れるものなら、安斎先生がじぶんで売って、酒代にでもすればいいのに)と、政次は思う。
見抜いたように、安斎先生は、
「わしが本を売るわけにはいかないからな」と言う。
先生なりの、商売の、沽券にも関わることだろうかと、政次は思う。
鍋が沸き、浅蜊が口を開く。安斎先生は、貝殻をひょいとつまみ、ふうふうと息を吹きかけながら、つるっと吸い込む。はふはふする。
「うまい」とつぶやき、茶碗の酒をすする。「ときに、おまえの顔色はすぐれないな。貝殻を見れば、今朝の売上げは五十文はくだらないと見た。して、おまえの顔は土気色をしている。これは、なんかあったかな」
いつも、こうである。それが医者というなりわいでもあろうが、それ以上の何かを、この安斎先生は、見抜く。
(まいったな)と、政次は思った。
頭のすみでそんなことを思うので、膝の上の江ノ島の本の中身が、頭に入って来ない。
「そして、おまえの銭入れが、あんなところに投げ出してある。おまえは銭には淡泊だが、それゆえ、思わぬ銭が入ると、銭を怖がって、ああやって、投げ出す」
政次は、言われて気づいたが、部屋の隅の薄暗い中でもいちばん薄暗い一角に、ろくに紐も巻き付けていない銭入れが、投げ出されてあった。
森下の味噌屋のおやじから預かった五百文と、安斎先生に見抜かれた通りの売上げ五十文あまりが、ちゃらちゃらと入っている。
政次は顔色を繕えない男なので、どんな気持ちが表れていただろう。
安斎先生は、ふぉっふぉと笑うと、茶碗の酒の滴を啜った。
「いかなわしでも、棒手振の銭入れは預かれない。まあ、あれを手に取れ。出かけるぞ」
こうなると、いいつけというより、催眠術である。
政次は部屋の隅に這っていき、いつもよりは持ち重りのする財布を手にとって、紐を巻き付けた。
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