三
長屋へ戻り、井戸端で手を洗った。
浅蜊の剥き身はみんな売れ、貝付きが小さな枡にひとつと、ひと握りの蜆が残っている。
なんの、わざと残したのである。
おし津の戸に目をやると、やはり、朝の通りに二寸開いたままだ。
なんとなく、いやな気を感じた。
いったんは自分の長屋に戻り、土間に桶を置き、天秤棒を立てかける。
それから政次は、大家を訪ねた。
このあたりの大家は、
「おや、政次か」と、主が出てくる。「まあ、上がれ」
「いや、大家さん、商売の後なんで、生臭くていけない。ここで……」
「どうした、おまえ。
「そのことではないんで。いらないせんさくとは、思って欲しくないんだけれど、ちょっと気になることがあったんで」
「なに。まあ、上がれ上がれ」
「では失礼して」
勝手口から上がってすぐが、隠居場だ。角に面した小さな座敷だが、それでも政次の部屋よりは広い。土蔵の陰にあたるが意外なほど風通しもよく、真夏でもしのぎやすいのを、政次は知っていた。
角火鉢には、炭を小さく焼いてあり、鉄瓶が軽く沸いている。多田屋の主は手づから煎茶を淹れ、火鉢越しに湯呑みを渡してくれた。
「おまえ、煙草は……」
「あ、やりません」
主は煙管を詰めながら、
「で、どうしたって?」と言うのも、ふだん口数の少ない政次が、昼ひなかに訪ねてくるのは、なまなかなことではないと気づいているのだ。
「へんに思われると、あっしは困ってしまうのです」
「さっきから、なにをもぐもぐ言い訳しているんだ。何があったんだえ」
「おし津さんのことで」
「おお、後家のな。おし津が、どうした」
政次は、朝、商売に出る時に、おし津の板戸が開いていて、今もまたそのままであったことを、大家に告げた。
「それでおまえは、おし津を訪ねてみなかったのか」
「へぇ」
「何を思ったものだか。まあ、おまえにはおまえの、えんりょというのがあったのだろうが、それとこれとは……」多田屋の隠居は、煙管を、かんと煙草盆の灰吹きに打ち付け、「どれ、ともかく行ってみようじゃないか」
多田屋から長屋へは、往来を渡ってすぐである。
稲荷のまえをさっさか過ぎて、多田屋は井戸端を回る。ちり箱の様子や、厠に素早く目を走らせるのを、さすが大家だなと、政次は見ていた。
おし津の戸は、朝のままだ。
「おい、おし津さん」と、多田屋がちいさな声で呼ばわる。「いるのかい」
返事はない。
大家は政次と顔を見合わせ、かるくうなずくと、戸に手をかけた。
少し渋く、板戸は開いた。むろんのこと、心張り棒はかかっていない。
女の一人所帯を目の当たりにして、政次はちょっと面映ゆく、目をそむけるかたちになった。
「いない」と、大家がつぶやく。
政次も、目を挙げる。
こぢんまりと片付いた部屋。政次のものと、まるで同じ作りだが、左右があべこべになっている。
土間の左手には台所。それを除いて四畳半。突き当たりの障子窓は、中庭に面しているせいか、光りの具合が政次の部屋より、よいようだ。
右手奥に、鏡台と、袋に収まった三味線。書見台。
角火鉢は、多田屋のものよりずっと小ぶりだが、政次のものよりは大きい。
小豆色の厚手の座布団が、向かい合っている。
部屋の隅、布団屏風にはきっちりと畳まれた夜具が隠され、乱れはどこにもない。
「失礼するよ」と、多田屋は誰にともなく声をかけ、雪駄を脱いで、上がる。
火鉢の灰はきれいに掻かれた溝がそのままで、煙草の跡もない。
台所もすっかり乾いていて、茶碗などの什器も、戸棚に収まっている。
大家が開けてみた行灯にも油が残っていて、燃えかすなどは、ない。
きれいなくらし、そのままで、おし津の姿だけが、ない。
大家は、突き当たりの障子を、さっと開いた。
政次の部屋にはない、幅二尺ほどの濡れ縁にも、泥などの汚れはない。
坪庭のようになっているのは、向こうの長屋の塀との、せまい地面だ。
あじさいが、ごくごくわずかに咲きかけ、塀には大きなまいまいが這っている。
朱塗りの小さな庭下駄が、平たい石の上にきちんと揃っている。
「あわてた様子は、ないな」と、大家がつぶやく。
(大家を呼んできて、やっぱりよかった)と、政次は思った。
元通りに戸を閉じて、二人は外へ出た。
大家はしきりに首を捻っている。
おし津が棲む棟割り長屋の片方は、木場で木挽きをしている大吉だ。夫婦者なので、家が空くことはまずない。何か妙なことがあれば、大吉夫婦が気づくはずではあるが、この夫婦、近所に愛想がない。
大家は大吉の家に向かって、
「大吉や。大吉や」と声をかける。もちろんこの時刻、大吉は家にはいない。「おかみさんや。大吉のかみさんや」
誰も出ない。
大家は大吉の戸に手をかけ、さっと開けた。
おし津の部屋より、ふすぼった感じはあるが、それでもこざっぱりとした、夫婦者のすまいである。
木挽きの商売道具である鋸が、大切そうに壁にかけられ、頑丈そうな道具箱が部屋の隅に収まっている。
「なんだ、誰もいないのか」と、多田屋はあたりまえのことを確かめるようにそう言うと、戸を閉めた。
この長屋は、つとめの者が多いので、昼にはひと気も少ない。それは、大家にはさいわいだったと言える。
「なに、たいしたことはあるまい。様子からして、おし津も、何かの用で出かけただけに違いない。政次、おまえ、こんや大吉が戻ったら、さりげなく話をしてみてくれ」
その先は、言われなくても、政次にはわかった。
(名主や奉行所などには、しらせは無用。――いまのところ)というわけだ。
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