長屋へ戻り、井戸端で手を洗った。

 浅蜊の剥き身はみんな売れ、貝付きが小さな枡にひとつと、ひと握りの蜆が残っている。

 なんの、わざと残したのである。

 おし津の戸に目をやると、やはり、朝の通りに二寸開いたままだ。

 なんとなく、いやな気を感じた。

 いったんは自分の長屋に戻り、土間に桶を置き、天秤棒を立てかける。

 それから政次は、大家を訪ねた。

 このあたりの大家は、干鰯ほしか〆油しめあぶらを営む《多田屋》だ。間口の広い店と、蔵との間の細い路地を入り、勝手口で声をかけた。

「おや、政次か」と、主が出てくる。「まあ、上がれ」

「いや、大家さん、商売の後なんで、生臭くていけない。ここで……」

「どうした、おまえ。店賃たなちんはまだまだ先じゃねえか」

「そのことではないんで。いらないせんさくとは、思って欲しくないんだけれど、ちょっと気になることがあったんで」

「なに。まあ、上がれ上がれ」

「では失礼して」

 勝手口から上がってすぐが、隠居場だ。角に面した小さな座敷だが、それでも政次の部屋よりは広い。土蔵の陰にあたるが意外なほど風通しもよく、真夏でもしのぎやすいのを、政次は知っていた。

 角火鉢には、炭を小さく焼いてあり、鉄瓶が軽く沸いている。多田屋の主は手づから煎茶を淹れ、火鉢越しに湯呑みを渡してくれた。

「おまえ、煙草は……」

「あ、やりません」

 主は煙管を詰めながら、

「で、どうしたって?」と言うのも、ふだん口数の少ない政次が、昼ひなかに訪ねてくるのは、なまなかなことではないと気づいているのだ。

「へんに思われると、あっしは困ってしまうのです」

「さっきから、なにをもぐもぐ言い訳しているんだ。何があったんだえ」

「おし津さんのことで」

「おお、後家のな。おし津が、どうした」

 政次は、朝、商売に出る時に、おし津の板戸が開いていて、今もまたそのままであったことを、大家に告げた。

「それでおまえは、おし津を訪ねてみなかったのか」

「へぇ」

「何を思ったものだか。まあ、おまえにはおまえの、えんりょというのがあったのだろうが、それとこれとは……」多田屋の隠居は、煙管を、かんと煙草盆の灰吹きに打ち付け、「どれ、ともかく行ってみようじゃないか」


 多田屋から長屋へは、往来を渡ってすぐである。

 稲荷のまえをさっさか過ぎて、多田屋は井戸端を回る。ちり箱の様子や、厠に素早く目を走らせるのを、さすが大家だなと、政次は見ていた。

 おし津の戸は、朝のままだ。

「おい、おし津さん」と、多田屋がちいさな声で呼ばわる。「いるのかい」

 返事はない。

 大家は政次と顔を見合わせ、かるくうなずくと、戸に手をかけた。

 少し渋く、板戸は開いた。むろんのこと、心張り棒はかかっていない。

 女の一人所帯を目の当たりにして、政次はちょっと面映ゆく、目をそむけるかたちになった。

「いない」と、大家がつぶやく。

 政次も、目を挙げる。

 こぢんまりと片付いた部屋。政次のものと、まるで同じ作りだが、左右があべこべになっている。

 土間の左手には台所。それを除いて四畳半。突き当たりの障子窓は、中庭に面しているせいか、光りの具合が政次の部屋より、よいようだ。

 右手奥に、鏡台と、袋に収まった三味線。書見台。

 角火鉢は、多田屋のものよりずっと小ぶりだが、政次のものよりは大きい。

 小豆色の厚手の座布団が、向かい合っている。

 部屋の隅、布団屏風にはきっちりと畳まれた夜具が隠され、乱れはどこにもない。

「失礼するよ」と、多田屋は誰にともなく声をかけ、雪駄を脱いで、上がる。

 火鉢の灰はきれいに掻かれた溝がそのままで、煙草の跡もない。

 台所もすっかり乾いていて、茶碗などの什器も、戸棚に収まっている。

 大家が開けてみた行灯にも油が残っていて、燃えかすなどは、ない。

 きれいなくらし、そのままで、おし津の姿だけが、ない。

 大家は、突き当たりの障子を、さっと開いた。

 政次の部屋にはない、幅二尺ほどの濡れ縁にも、泥などの汚れはない。

 坪庭のようになっているのは、向こうの長屋の塀との、せまい地面だ。

 あじさいが、ごくごくわずかに咲きかけ、塀には大きなまいまいが這っている。

 朱塗りの小さな庭下駄が、平たい石の上にきちんと揃っている。

「あわてた様子は、ないな」と、大家がつぶやく。

(大家を呼んできて、やっぱりよかった)と、政次は思った。


 元通りに戸を閉じて、二人は外へ出た。

 大家はしきりに首を捻っている。

 おし津が棲む棟割り長屋の片方は、木場で木挽きをしている大吉だ。夫婦者なので、家が空くことはまずない。何か妙なことがあれば、大吉夫婦が気づくはずではあるが、この夫婦、近所に愛想がない。

 大家は大吉の家に向かって、

「大吉や。大吉や」と声をかける。もちろんこの時刻、大吉は家にはいない。「おかみさんや。大吉のかみさんや」

 誰も出ない。

 大家は大吉の戸に手をかけ、さっと開けた。

 おし津の部屋より、ふすぼった感じはあるが、それでもこざっぱりとした、夫婦者のすまいである。

 木挽きの商売道具である鋸が、大切そうに壁にかけられ、頑丈そうな道具箱が部屋の隅に収まっている。

「なんだ、誰もいないのか」と、多田屋はあたりまえのことを確かめるようにそう言うと、戸を閉めた。

 この長屋は、つとめの者が多いので、昼にはひと気も少ない。それは、大家にはさいわいだったと言える。

「なに、たいしたことはあるまい。様子からして、おし津も、何かの用で出かけただけに違いない。政次、おまえ、こんや大吉が戻ったら、さりげなく話をしてみてくれ」

 その先は、言われなくても、政次にはわかった。

(名主や奉行所などには、しらせは無用。――いまのところ)というわけだ。

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