二
政次の
明け六つから熱心に商売をしている仲間にも、政次が引けを取らない秘密のことだ。
八百新の前を通るとき、政次は少し歩みを遅くして、控え目な声で、
「あさりぃ」と呼ばわってみる。
すでに店の支度にかかっていたおかみさんが、台所からいつものざるを出してきて、
「ちょうだいな」
政次は、小さい方の枡に、こんもりと剥き身を取って、ざるにあける。
この、こんもりと、というのも、政次の心得だ。
「まいど」と、四文銭をふたつ受け取る。
いつもの朝だ。
「ときに、政次さん、鰹はまだ持ってないようだね」
「はぁ」
「河岸には、いいのが揚がっているそうじゃないのさ」
「へぇ」
「うちのが言うんだよ。『政次の鰹を買ってやれ』ってさ」
あれはもう、一昨年のことだ。馬鹿に安く仕入れた鰹が、これまた味のよいもので、政次は掛け値をせず正直に売ったものだから、いったいどれが初物やらという調子で、二三日も鰹が売れまくった。
八百新のおやじはけちで知られているが、野菜や漬け物を扱う商売柄、舌は確かだ。あの日も、夕刻、小僧がやってきて、
「売れ残ってるなら、ください。ないなら明日の朝、一本持ってきて下さい」などと言いながら、前払いで四百文置いていったものだ。
その四百文が、いまの政次には、ない。
あいまい笑いで誤魔化すのは政次の性には合わないが、とはいえ、
「仕入れる銭がない」とも言えない。
ほとほと情けない話だった。
森下のあたりまでが、政次の縄張りで、そのあたりまで行けば、貝の八割方は売れている。もっとも、棒手振には、縄張りなんてものはないので、そのままずんずん北へ向かってもいいのだが、あんまり欲をかくことを、政次は好まない。
いや、ほんとうを言えば、めんどうくさいのだ。橋の向こうの味噌屋が、二日にいっぺんは買ってくれるのでそこまで足を伸ばし、例によって、控え目に、
「あさりぃ、しじみぃ」と声を上げると、おやじ自らが出てきた。
「よう。鰹はまだかい」
「はぁ」と、政次は鉢巻きに手をやるばかりである。
このおやじ、信州から出てきた苦労人とは聞いている。さすがに何かを見抜いたようで、
「元手がなくて、貝ばっかりというわけではあるめえな」
「へへへ。お見通しだね」
おやじは口をへの字に結んだかと思うと、
「どれ、待て」と、味噌樽の間を抜けていき、帳場の箱に手を突っ込むと、
「五百もあれあ、小ぶりの鰹の一、二本も仕入れられるだろう」と、百文銭を六枚押しつける。当たり百の、この銅銭は河岸で一枚八十文の扱い。五百というには、ちと足りないが――。
「だんな。これはいけねえ」
「いけねえこたあねえ。なにも、やるとは言ってねえ。うちには一本持ってこい。あとは、売れりゃ、元は取れるだろう。そっから返せ」
押し戴いて懐に入れながら、なんだか政次のうつうつは、増したようだった。
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