政次のき身は、味が良くて人気がいい。それもそのはず、砂抜きにちょっとした秘訣がある。たいていは、仕入れたまま桶の中でうっちゃらかすのが他の棒手振のやり方だが、政次はそこに少々の酒をたらしこむ。そうすると、あさりはよく砂を吐くばかりではなく、いきのいいまま、臭味もよく取れるのだ。

 明け六つから熱心に商売をしている仲間にも、政次が引けを取らない秘密のことだ。

 八百新の前を通るとき、政次は少し歩みを遅くして、控え目な声で、

「あさりぃ」と呼ばわってみる。

 すでに店の支度にかかっていたおかみさんが、台所からいつものざるを出してきて、

「ちょうだいな」

 政次は、小さい方の枡に、こんもりと剥き身を取って、ざるにあける。

 この、こんもりと、というのも、政次の心得だ。

「まいど」と、四文銭をふたつ受け取る。

 いつもの朝だ。

「ときに、政次さん、鰹はまだ持ってないようだね」

「はぁ」

「河岸には、いいのが揚がっているそうじゃないのさ」

「へぇ」

「うちのが言うんだよ。『政次の鰹を買ってやれ』ってさ」

 あれはもう、一昨年のことだ。馬鹿に安く仕入れた鰹が、これまた味のよいもので、政次は掛け値をせず正直に売ったものだから、いったいどれが初物やらという調子で、二三日も鰹が売れまくった。

 八百新のおやじはけちで知られているが、野菜や漬け物を扱う商売柄、舌は確かだ。あの日も、夕刻、小僧がやってきて、

「売れ残ってるなら、ください。ないなら明日の朝、一本持ってきて下さい」などと言いながら、前払いで四百文置いていったものだ。

 その四百文が、いまの政次には、ない。

 あいまい笑いで誤魔化すのは政次の性には合わないが、とはいえ、

「仕入れる銭がない」とも言えない。

 ほとほと情けない話だった。


 森下のあたりまでが、政次の縄張りで、そのあたりまで行けば、貝の八割方は売れている。もっとも、棒手振には、縄張りなんてものはないので、そのままずんずん北へ向かってもいいのだが、あんまり欲をかくことを、政次は好まない。

 いや、ほんとうを言えば、めんどうくさいのだ。橋の向こうの味噌屋が、二日にいっぺんは買ってくれるのでそこまで足を伸ばし、例によって、控え目に、

「あさりぃ、しじみぃ」と声を上げると、おやじ自らが出てきた。

「よう。鰹はまだかい」

「はぁ」と、政次は鉢巻きに手をやるばかりである。

 このおやじ、信州から出てきた苦労人とは聞いている。さすがに何かを見抜いたようで、

「元手がなくて、貝ばっかりというわけではあるめえな」

「へへへ。お見通しだね」

 おやじは口をへの字に結んだかと思うと、

「どれ、待て」と、味噌樽の間を抜けていき、帳場の箱に手を突っ込むと、

「五百もあれあ、小ぶりの鰹の一、二本も仕入れられるだろう」と、百文銭を六枚押しつける。当たり百の、この銅銭は河岸で一枚八十文の扱い。五百というには、ちと足りないが――。

「だんな。これはいけねえ」

「いけねえこたあねえ。なにも、やるとは言ってねえ。うちには一本持ってこい。あとは、売れりゃ、元は取れるだろう。そっから返せ」

 押し戴いて懐に入れながら、なんだか政次のうつうつは、増したようだった。

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