魚屋まさじ事件帖
呂句郎
一
目には青葉の季節というのに、
初鰹を仕入れることができないのである。
(いまここに、
五百文があれば、ちょっと型のいいやつの一本も仕入れ、得意先を歩けば、午になる前にも捌けるには違いないのだ。
もっとも、政次の扱う初鰹など、四月下旬ともなれば
そんなものは、お大尽か料亭が、ご祝儀込みの値で引き取るわけで、政次なんぞの
政次が思うのは、この深川も佐賀町あたりの長屋暮らしの者が初めて口にする、それである。
今年のものは貫目は大きくないものの、味はとびきりよいという噂だ。数も揚がっているそうで、河岸でもはじめ一両だったものが、二分、四分と、わりと手頃になってきていると聞く。
七十五日もの寿命が延びるという初物のうちでも、初鰹は七百五十日も延びるとのよし。ここ深川でも、誰しもが先を争うように食いたがる。
天秤棒の両端に、桶一杯の鰹を載せて往来を商いしたいものだが、仕入れのための
それでも今朝の浅蜊が、いい品物だったのがせめてものことだ。
千葉のものだと言うが、江戸前に引けをとらない――どころかよっぽどいいと、政次は思っている。
ふっくりと丸い貝にへらを入れ、貝柱を切ったときに気づいた。しっかりとした身が、丸々としている。
夢中になって手を動かすうちに、仕入れの半分は剥き身になった。残りの半分は、貝付きのままで売る。
朝の五つ時では、いくらか遅く、棒手振仲間からは「欲のない商売よ」と言われるのだが、政次は気にしない。あまり早い刻限から、近所を、
「あさり~ぃ、しじみ~ぃ」と呼ばわるのも、なんだか遠慮されるのだ。
六尺の天秤棒を担ぎ、「よっこらしょ」と腰を起こした政次は、路地へ出る。いつものように、井戸端で水を汲み、ひしゃくで掬って一口飲んだ。
ふと目をやると、おし
(こんな時刻に、めずらしいことだな)と政次は思う。
おし津は、後家だ。
(若後家と言ってもいいだろう)と政次は思っているが、本当の歳は知らない。近在の娘らを集めては、裁縫や読み書きを教え、わずかな
おし津が三味線の包みを抱えて出ていくのに出くわしたとき、政次は、
「お稽古ですか。精が出ますね」と声をかけたことがある。
どこかに、習いに出かけると思ったのだ。
「ええ。こうでもしませんと、やっていかれないもの」とおし津が答えるのを聞き、むしろ出稽古をつけにいく腕前なのだと知って、赤面した政次だった。
朝の商売を終えて政次が長屋に戻る頃、ちょうど起き出したものか、水を汲むおし津に会うことがよくあった。
「おはようございます」と丁寧な挨拶をする様子も、どことなく、下町の出ではないようにも思われる。武家に奉公に出ていたのだという話も、聞いたことがあるが、やはり詳しくは、知らない。
政次は桶に残った、ひと枡に足らないほどの浅蜊や蜆を、
「売れ残りで悪いけど、よろしかったら、おつけの具にでも」と分けてやることがよくあった。
そのうち、商売が忙しかった日でも、おし津に分けてやるぶんを、なんとなく残すようになったものだ。
何のことはない。少し、惚れていたのである。
細く開いた板戸は気になったが、手を掛けるわけにもいかない。
政次は稲荷に向かって軽く手を合わせ、路地を出た。
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