1/4

 僕は、その生き物を食い入るように見つめていた。

 てかてかした灰色の皮膚をもつ、ずんぐりとした体つきの生き物が、底も見えないくらいに濁った灰緑の川で、下肢を屈伸させて、泥を舞い上げながら動いていた。灰色の皮膚がちょうどいい具合に光を反射するので、動くたびに下肢の筋肉が収縮するさまが、はっきりと分かった。生き物は、皮膚と同じ色と質感をもつ、舳先のように反り上がった細長い器官を水面から突き出しており、器官と水面の接点から生まれる波が、川一面の桜の花びらを押しのける波を作り出していた。

 その生き物は、同じ川に棲みついている鯉にも、川面を埋め尽くす桜の花びらにも、沿道から見下ろす、まだ子どもだった僕たちにも等しく無関心で遊弋していた。

 急に固まって、顔に降り掛かった花びらも気にかけずにいる視線の先に、一緒に居たハカセと怪獣マニアが気づいた。

「川になにかいるの?」

「もしかしてカッパか?」

「ここじゃ桜が邪魔だから、橋の上に行こう」

 手すりから身を乗り出して川を見つめている僕たちのところに、下校中の男子が次々と群れ集まってきた。今はどうなのか知らないが、僕の頃は男子と女子とでいろいろと領分が違っていた。

「どうせ大きな鯉だろ」

 誰かがもっともありえそうなことを口にすると即座に、別の誰かが疑問を提出した。

「本当に?」

 こうして大騒動の火蓋が切って落とされた。

 大きな鯉だとか、四本の足があるからオオサンショウオだとか、背中が灰色で河の豚みたいだからイルカだとか(イルカは海の豚だとツッコミを入れたのはハカセだった)、後ろの足がムキムキだからカンガルーだとか。

 それぞれの説にはすぐ反論が加えられた。カエルみたいにてかてかで鱗が無いから鯉じゃないとか、象みたいに長い鼻みたいのを水の上に出してるからオオサンショウウオじゃないとか、背びれが無くて犬みたいな耳をつけているからイルカじゃないとか、ここはオーストラリアじゃないとか。

 給食の残りのパンや、トカゲの尻尾を投げ込んだのもいたが、その生き物は何の興味も示さず、背中に石をぶつけられても平然としていた。

 携帯電話は持ち込み禁止だったから、今ではすっかりお馴染みの、何かを見つけたらすぐ動画撮影なんてことはなかった。意見の食い違いや、場所の取り合いで、いまにも殴り合いの喧嘩が始まりそうなときに、怪獣マニアが口を開いた。

「ああいうよくわからない生き物は未確認動物、UMAといって、ローマ字でユー、エム、エーと書くんだ」

 早くも声変わりが進んでいた彼の声が、みんなの視線を集めた。視線の先には、学校全体でみてもガタイのいいほうだった怪獣マニアがいて、その気迫に打たれて、みんなが静まり返った。

「はいはい。僕たち、通してねー。はいはーい」

 スーパーのレジ袋を自転車のカゴに詰め込んだ大人が、駅のほうからやってきて、僕たちを我に返らせた。自転車はベルを鳴らしながら、なし崩し的に二つに割れた子どもたちの間を縫うように通り過ぎていった。その日はこれでおしまいだった。


「ただいま」

 音を立てて玄関の戸を開け、スニーカーを脱ぎ捨てて上がった。

「おかえり」

「おかえり」

 妹ができたことをきっかけに、父は在宅勤務のできる会社に転職した。二年くらい前までは、居間から聞こえてくる「おかえり」の返事は一つだけだった。

 二人とも、ハイハイを終えたばかりの妹にかかりきりだった。

「宿題やってくる」

 廊下から居間に向けて叫ぶとすぐに、自分の部屋へと階段を駆け上がった。両親には何も話さなかった。今日の一件は、子どもたちだけの秘密だった。話したところで、妹に愛情を取られた兄の嫉妬だと思われるのがオチだったろう。

 学校でも、先生のいる場所では誰もこの件を口にしなかった。


 翌日以降、観測地点は橋の上に移った。桜並木のある川沿いの道は花見には向いていたが、川に潜む灰色の生き物を探すには不向きだった。

 最初の頃はかなりの人数が、橋の欄干沿いに群れ集まっていた。背伸びをする者、土足のままランドセルを踏み台にする者、橋の下を覗き込もうと身を乗り出す者、いろいろなのがいた。ハカセの眼鏡を拝借しようとした奴と喧嘩もした。とにかく、観察と正体を巡っての言い合いに夢中になっていた。

 登下校時には見かけない顔がやってきて、人溜まりの内側に入り込もうとすることも何度かあった。もしかすると、ご法度の寄り道をしてまで見物にきていたのかもしれない。

 実を言うと、僕も寄り道組だった。通学路は川沿いの道だったが、橋を渡る通学路ではなかった。

 そんなある日のことだ。

「UMAには名前がつくものだよ」

 命名の問題の口火を切ったのは、怪獣マニアだった。彼は聞き慣れないカタカナ語を並べ始めた。たしか、チュパカブラとかネッシーとか、その手の名前だった。今では思い出すこともできない名前もたくさんあって、その全てに対して、とにかくワクワクする響きを感じていた。とはいえ、僕にとっては聞いたこともない名前ばかりだったし、他のみんなにとっても同じだったと思う。

 僕もなにか案をだしたはずだが、思い出せない。なんだかとらえどころのない見た目ということもあって、なかなか一つの案にまとまらなかった。案の一つに、ネッシーにあやかった、クッシーがあった。

「たしかに発見された土地の名称にちなむのは良い案だ」

 ハカセがクッシー案に賛同した。

「でも、ネッシーは首長竜の生き残りかもしれないといわれてるし、いまここにいるのはそうは見えない」

 怪獣マニアが反論した。

 再び、鯉だ、カエルだ、オオサンショウウオだ、象だ、イルカだ、犬だ、カンガルーだと、言い合いが始まった。

 結局、誰が言い出したかは忘れてしまったが、やはり川の名前をとってクロちゃんと呼ぶことでみんなが一致した。

「クロちゃーん」

「おーい」

「こっちこっちー」

 名前が決まるやいなや、みんなが叫び始めた。

 何度呼びかけても、シロちゃんとかイシちゃんとか別の名前で呼びかけても、何の反応もなかった。ただただ、川底の泥を掻き上げる独特の泳法、あるいは歩法を繰り返すばかりだった。

「こら、通学路で騒がない。ほら、そんなに身を乗り出したら危ないでしょ」

 またしても、自転車のかごを一杯にした買い物帰りの大人が、解散の合図だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る