お茶請けのカステラ

糸賀 太(いとが ふとし)

1

 妹の遺品で何かを引き取ることになったら、トランクだけでなく、埋まるはずだった助手席も、荷物置き場になるだろう。

 実家までの道中では、考えても元に戻せないことは考えず、妹のことを思い出そうとしたが、あまりうまくいかなかった。むしろ思い出したのは、振られたばかりの交際相手のことだった。

 交差点で止まると、居酒屋チェーンの看板が目に入った。シークワーサーのハイボール片手に、沖縄に行きたい、本物のシーサーが見たいと彼女が騒いでいた光景が眼前に浮かび上がってくる。

 妹が旅行先で亡くなったのは数年ほど前、妹が大学生だったときで、最後に会ったのはそれより前のはずだ。いつ頃だったろうか。会ったときに、まとまった量の会話をしたかどうかすら怪しい。

 彼女の顔は鮮明に思い出せるのに、妹の顔は遺影くらいしか思い出せない。

 信号が変わった。青緑の明るい光が目に飛び込んできて、僕のなかで一つの疑問を掻き立てた。青緑のカエルのきぐるみと笑顔でのツーショット。両親はなぜ、あんな写真を遺影にしたのだろうか。


 地元につくと、いつものコインパーキングへ向かった。チケットを取るために窓を開けるとすぐ、熱気が入り込んできた。せめて愛車は失くしたくないなとひとりごちながら、なるべく人目につきそうな場所に停めて、ドアを開けた。直射日光に、くらくらしつつ鍵を確認して、実家に向かった。

 真夏の熱気を受けて、ムッとする匂いを立ち上らせているどぶ川を渡ったあとは、通学路だった川沿いの桜並木を歩く。たちまち玉の汗が吹き出してきた。

 実家の前の道路に出ると、門先に犬がつながれていた。戸惑っていると、見覚えのない婦人が出てきた。

「あら、あきらちゃんのお兄さん?」

「あ、はい。両親がお世話になってます」

 初対面の客に、軽く会釈を返した。

「このたびはご愁傷様でした」

「ええ、まあ」

 来客はそのまま犬の散歩をはじめた。入れ違いに実家の門をくぐって、玄関の戸を開けると、ほのかに線香の匂いが漂ってきた。

「ただいま」

「おかえり。ああ、ひとりなのね、まあいいわ、上がって。麦茶冷えてるわよ」

 一人で帰ってきたことをほじくられたくなかった。

「さっきの人、晶の知り合い?」

「ああ、青山さん。八年前くらいに越してきたの。晶ちゃん、ずっとあの人のフォックステリアをかわいがっててねえ。よくなついてたのよ。どっちが飼い主なのかわからなかったくらい」

「ふうん」

 居間に入ると、机には茶碗が三つ出たままで、お茶請けのカステラが数切れ残っていた。カステラは、生地全体が焦茶色だった。

「おう」

「うん、ただいま」

 父はソファに腰掛けていた。ソファの片隅には古びた毛布が小さくたたまれていた。挨拶を交わしたとき、その手が毛布から引っ込められたような気がする。

 母と一緒に仏壇に向かい、まだ長い三本目の線香の隣に、四本目を供えた。仏壇にも、お茶請けと同じ、焦茶色のカステラが供えてあった。遺影の妹は、黒のショートヘアに黒いセルフレームの眼鏡をかけて、動きやすそうなTシャツとスリムのズボンを履いていた。葬儀のときもそうだったが、一緒に写っているカエルの顔にどう反応したものか困りつつ、鐘を鳴らした。

 余韻が消えないうちに、父が仏間にやってきて、遺影を見つめた。

「あの子は犬だけじゃなくて、両生類も好きだったんだよ。五年生のときの自由研究が、オタマジャクシで、いつカエルになるかって、毎日夢中になって観察していた」

 葬儀のときに、そんなわけがあって遺影がこれになったと聞いた気がする。亡くした愛娘について両親が語っているという状況を踏まえた上でも、妹の生き物好きは相当なものだったようだ。

「そうそう。中学のときは青山さんのところのワンちゃんの観察。毎日あちらのお宅に通ってたわね。お父さんがアレルギーだから、帰るたびに晶ちゃんにコロコロかけてた」

「案の定、高校は理系にいって、朝ご飯食べながら生物の教科書読んでたな」

「お行儀が悪いと叱ったけど、受験勉強になるっていうから、こっちも強く言えなくて」

「要するに、なんでも生き物が好きだったんだよ。初めて入ったバイト代で買ったのが、妖怪の画集だったのは驚いたけどさ」

「地元の大学に進学して、本がどんどん増えて、旅行にも行くようになったから、旅先で買ったキーホルダーとかお守りも増えて」

「部屋に寝るところが無くなって、ソファで寝るようになった」

「あの毛布は、もうしばらくとっておきましょうね」

「あのさ、いったいなにがきっかけで、生き物好きになったの?」

「カズくんは知ってると思ったけど。まさか忘れちゃったの?」

「ずいぶんと薄情なやつだなあ」

「ごめん。本当に覚えてないんだ」

 妹が思春期を迎えるより早くに、僕は進学して実家を出たから、妹と言葉を交わす機会は少なく、なんとなく疎遠になっていった。帰省したときも、あまり話さなかったと思う。妹が国内外を旅するようになってからは、顔をあわせることも減った。居間で見かけたり、リュックサックひとつで出かけるところを玄関ですれ違ったりしたくらいだ。

 僕は妹の人生の、せいぜい四割くらいしか知らない。

「それにしてもまあ、生き物好きが災いするとはねえ」

「まさか狂犬病とはなあ」

 妹は大学の夏休みの旅行先で野良犬に噛まれて、狂犬病にかかって亡くなった。僕や両親には馴染みのない形での死だった。


 母に促されて、二階に上がり、妹の部屋の前に来た。

「とにかくダンボールで一杯で、大学の本とか、旅行のお土産がたくさん」

 妹の部屋に入るのは、少なくとも十数年ぶりのはずだ。

 母がドアを開けた。南側に窓がある部屋にしては、やけに暗かった。

 電気をつけてもらったときの光景は、僕の想像を超えていた。みかん箱、ネット通販の箱、商品名とバーコードが大きく印刷されてる箱、蓋を取り払ったお菓子箱。見た目も大きさもまちまちの箱が、うず高く積み上がって、ベランダに出る南側の窓を半分以上塞いでいた。北側には、背の高い本棚がくまなく並び、壁を隠していた。押し入れにも、たくさん物があるのだろう。

「晶ちゃんがね、『背表紙が焼けちゃう』って言って、窓を塞いじゃったの。おかげで洗濯物が二階で干せなくて困ってるの」

 言うほどには困っていなさそうな母の言葉を聞きながら、部屋の様子を探った。箱の間隔は、服がこすれるくらいに狭い。後付のラベルや書き込みは見当たらず、どのように分類していたのかを知る手がかりはなかった。

 何箱か動かしてみて、軽いものから手を付けることにした。思春期になってからの衣服が、セーラー服を除けば、遺影にあるような動きやすいシャツとズボンばかりで、カバンもリュックサックしか出てこないのは、妹の関心が僕とは全然べつの方向に向いていたことを示していた。

「きっと、この山に取り組めば、晶ちゃんのこと、よく思い出せるわよ」

 僕を置き去りにして、母は父の車でショッピングモールまで夕飯の材料を買いにいった。一緒にいた経験そのものが少なかったから、知ることは多いに違いないが、思い出すことは少ないだろう。

 理系に進んで大学では生物学を専攻していたと聞いていたが、案の定、その手の本がたくさん出てきた。本棚とは別に、それもダンボール数箱分だ。大学では教科書しか買わなかった僕と違って、妹は教科書以外にも相当な量の本を抱えていた。生物学だけではなく、妖怪や妖精、UMAなど、とにかく生き物の本であれば手当たり次第といった感じだった。妹の蔵書のなかには、黄ばんだページでなんとなく甘い匂いを漂わせる古本もまじっていた。挟んであったレシートや納品書のおかげで、学生街の古本屋や通販をよく利用していたことを知った。

 本と同じくらいの分量があるのは、旅行先で集めた品物や、旅先の写真のアルバムだった。写真の多くは、その土地の動物、マスコット、ゆるキャラ、石像など、実在と空想を問わず、生き物を写したものだった。ずっしりと重いアルバムに加えて、そうした生き物をくっつけたお守りやらキーホルダーがたくさん、そのうえ彫像まで出てきた。

 妹は、古今東西、実在と空想を問わず、生き物に青春をかけていた。

 奥のほうに、古いノート類で一杯になっている箱があった。そこから古びた学習帳を取り出してパラパラめくっていると、不意に親指にかかる感触が変わった。なにか挟まっているのかと思ってページを戻すと、そこには一枚の古い写真が貼ってあった。

 その瞬間まで、写真のことも、被写体の生き物のこともすっかり忘れていた。

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