◇閑話◇ クロード・モネに関する雑学

 何故か絵画の話になると、閑話を書き始める紹介者です。すみません(笑)


 前回、四谷軒さんの『小さな勇気とラッキースター ~ 創作を愛するすべての人たちへ…… ~』をご紹介しましたが、これにもクロード・モネという印象派絵画の巨匠が登場します。


 ということで、今回もお節介と思いつつも、紹介した作品との関連情報を勝手に語っていきますので(しかも勝手な解釈もついております……)、もし興味があればお読みくださいませ。



【クロード・モネと印象派の話】

〇印象派はすぐには認められなかった〇

 前回の紹介内容で、私は「矢代がモネの絵に『変な色』と言ったことが興味深い」と書きました。それは印象派が中々認められなかったことと関係しています。(と、私は解釈しています)


 1874年、印象派たちの初めての展覧会が開かれます。

 印象派が生まれる前、絵画は写真寄りのものが多く、絵画を見た人は「これは人だね」「これはヴィーナスを描いているんだね」など、ちゃんと分かるようになっていたんです。(全て写真寄りというわけではありませんが、印象派の作品ほど分かりにくくはありませんでした)


 しかし、印象派の絵というのは今までの作品と全く違っていたのです。近くで見ると、ただ絵の具が置かれてあるようにしか見えない。

 それはこれまでの描き方と違っていたから当然なのですが、あまりのひどい絵に批評家は怒るし、アカデミー派の画家は馬鹿にするし、なかなか受け入れられなかったんです。


 1874年の印象派展には、モネもいくつか作品を出していました。その一つが『印象・日の出』という作品。これが後に「印象派(印象主義)」という、彼らの描く作品を総称する名前になります。


 この展覧会以降、印象派といわれた画家たちは批判され、認めてもらえない、苦しい時代が続きますが、自分たちの作品を出し続けます。なかなか評価されませんでしたが、それでも「印象派」の作品に潜む、当時の「色彩光学理論」と関係性があることに気づいた人たちがおり、その理解が広がると、徐々に印象派の作品を買い求める人たちが増えていきました。


 とはいっても、モネ自身は「色彩光学理論」を理解して作品を描いていたわけではありません。感覚的にそれを分かっていてやっていたのです。これが「絵画の変革をもたらした」というのですから、すごいですよね。

 印象派と光の科学の関連性を知りたい方は、よければ私の作品『色彩と西洋絵画』をご参照ください(一番下にURLと簡単な説明を付けておきました)。


 このような経緯があったので、矢代がモネの絵に「変」と言ったことに対し、彼は逆に「いいね」と言ったのです(と、私は解釈しています)。新しいものを切り開いていくときは、いつだって最初は批判にさらされるものだと知っているからかなと。


『小さな勇気とラッキースター ~ 創作を愛するすべての人たちへ…… ~』というタイトルに、「創作を愛するすべての人たちへ……」という副題がついているのは、作者さんがそういうことを伝えたかったのではないかなぁと、私は思いました。



〇モネと白内障〇

 精力的に作品を作り続けたモネ。

 しかし彼は晩年白内障になります。

 彼が白内障によって視力が大きく低下したと言われているのが、1910年頃。それと同時に、創作意欲が著しく衰えてしまいます。


 しかし、手術によって回復。

 ちなみに、白内障の手術の歴史は3000年もあります。ちょっと驚きですよね。まあ、もちろん今の時代ほど医学が発展しているわけではありませんでしたから、色々大変なことはあったようですが……。

 現代は「眼内レンズ」といって、目のなかにレンズを入れる手術ができますが、モネの時代はまだそれがなく、手術したあとは分厚い眼鏡(牛乳瓶の底みたいなやつ)を掛けなければならなかったようです。


 絵描きにとって「見え方」というのは重要です。それまで色鮮やかだったモネの絵が、赤茶色が主の作品ばかりになっていったのは、白内障の影響があったという見方があります。


 人が色を認識できるのは、目の奥にある「網膜」にある色のセンサーがあるためです。

 白内障というのは、水晶体が混濁すること。水晶体が濁ると、網膜の奥にある色のセンサーに光が届きにくくなります。すると輪郭がぼんやりとして見えなくなり、それと同時に、青系の光が目の奥に届かなくなるのです。

 何故青系の光が目の奥に届かなくなるのかというと、光の波長が短いことによるものなのですが、これを説明するとさらに長くなるので科学的な説明は省略します。


 実際、白内障の手術をしたことがある人に聞いたことがあるのですが、手術をした後、「青白く見える」というのです。それは青色の光が入るようになったから。皆さんも黄色いようなオレンジ色のような明かりの部屋から、白い光の部屋に入ると光が青っぽく見えた経験があると思います。つまり、手術したから「青白く見える」ようになったわけではなく、見え方が白内障になる前に戻っただけなのですが、白内障のときの見え方が赤系統だったために、そう感じたのです。


 話をモネに戻しますが、彼も白内障だったため、景色が赤系統に見えていたと言われています。晩年になるにつれて、彼の絵は色はどんどん赤く、抽象的になっていきます。資料によっては、「モネの興味が形よりも現象そのものに移っていったから」(『鑑賞のための西洋美術史入門』視覚デザイン研究所)と書いてあるものもあるので、実際のところはどうか分かりません。


 しかし、私はモネの絵には白内障の影響は、少なからずあったのではないかと考えています。


 そのため『小さな勇気とラッキースター ~ 創作を愛するすべての人たちへ…… ~』のなかで、矢代が赤茶けたモネの絵を見て「色が変」というのも当然なのです。矢代はモネの瑞々しい色使いを見てきただけに、赤っぽい絵を見て変だなと思ったのです。


 実際モネの周囲は、『あのモネに会えるという期待感が浮かびつつ、一方で、最近パリ市中でささやかれる、「モネは老いた」「あの色づかいはもういけない」という巷説が脳内に浮かんだ。』(『小さな勇気とラッキースター ~ 創作を愛するすべての人たちへ…… ~』より引用)とあるように、彼の作品にもう期待していませんでした。


 しかし矢代が「赤ではなく緑ではありませんか」と言わなかったのが、モネにとっては良かった。色を正すわけではなく「変」と言ったことによって、モネには可能性に変わったのです。だから、モネは松方に「これが本当のみやげか」と言ったのでしょう。(と、私は解釈しました)


 期待されなくなったモネ。しかし、彼は矢代の「小さな勇気」によって、救われたのです。


 ……と、私は自分がもっている知識を総動員して『小さな勇気とラッキースター ~ 創作を愛するすべての人たちへ…… ~』を読んでこのように解釈しましたが、人によっては違うと思います。


 ただ、この作品が伝えたかったことは、「新しいことをするときはいつだって勇気のいることだ」ということなのかなと。

 でもそれは同時に、鑑賞者の側もその新しいものへ挑戦する勇気が必要でもあるということでもあると思います。


 似たようなもの、同じようなものは、結果が予想できるので安心します。

 現代人は、どこかそういうところを求めているように思うのです。


 社会環境がそうさせているのか分かりません。でも、モネや矢代のように、小さな勇気をもって、新しいものへの挑戦をするのも良いのではないかなと思わせてくれる作品でした。


 以上、長々とすみませんm(__)m



【印象派の作品について】

 上記で紹介しておりました、私の作品のURLが下記のものです。

 他の方の作品紹介をしているのに、自分の作品を出すのはあまりよくないとは思っているのですが、改めて説明するのは大変なのでURLを載せておきます……。


『色彩と西洋絵画』

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054894350368


 絵画の歴史的背景や絵に込められた意味などが分からなくても、タイトルから絵画の検索さえしてくだされば、理解できる内容になっていると思います。

 また、最初から読んでいただいた方が理解が深まりますが、面倒な方は「第2章 色彩科学」から読んでもらって構いません。どちらにせよ、「印象派とは何ぞや?」をふわっと分かってもらえるのではないかと思います。参考までに。


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