第6話 やはり三次元は厄介という話。

 「おら、とっとと行け。頭下げて済むならそれで済ませろ」

「……それで済むなら話は早いんだよなぁ」


 三人で彼の本当の住まいである学生寮に向かった。


「……待てよ、凪がくるのはマズいのでは?」

「……確かに」


 寮に男が女を連れ込むのは厳禁。さらに女性問題で市川は放り出されたのだ。

 そんな状態で、一応見た目は良い女子高生、神代凪を連れて行くのは、いささか問題……いささかどころではないな。うん。マズいな。

 しかしながらそれに気づいたのは。もう学生寮が目と鼻の先のところだった。


「諒ちゃん、帰って来たのね」


  一度だけ会ったことがあるからわかる。寮長さんが凪をどうしようかと悩んでいる間に出て来た。しかし、久々に聞いたな、市川の名前の方。

 市川の彼女は結構変わる上、全員名前で呼ぶから、俺は名前では呼ばず、いつも名字で呼んでいた。

 その市川だが、物凄く引きつった笑みを浮かべている。


「や、やあ……あはは……」

「……おい、市川、お前、まさか」

「えぇ……市川さん、年上の方が好みなんですか?」

「と、年上と言っても、まだ二十代だ」

「まだって何よ、まだって! 私は二十四よ! 四捨五入すれば二十歳よ!」


 また強烈なの選んだなぁ……。


「なぁ、何でお前は厄介な女ばかり引っかけるんだ?」

「荒谷さん。本人の目の前で何を……」

「むっ、確かに」


 今この場で一番の常識人の座を凪に譲ってしまっていたらしい。

 咳払いして頭を切り替える。


「それで、寮長さん。こいつ部屋を追い出されたとか言って、俺の部屋に転がり込んできたんですよ。帰れるようにしてくださいませんかね?」

「君は自分の元カノと、同じアパートに暮らせる?」

「さぁ、知りませんけど、酷い別れ方じゃなければいけるんじゃないですか?」


 ため息を吐かれる。


「私も君みたいに能天気なら良いんだけど。まぁ、そういう意見もあるわね。じゃあ次の質問。彼がまともな別れ方、できると思う?」

「無理ですね」

「おい」


 俺が知る限り、こいつが穏便な別れ方をしたなんて話は聞いたことが無い。


「でしょ。同じ寮で三人に手を出すなんて、流石に考えられないわ」

「なるほど。おい、市川、お前が悪い。諦めろ。俺は巻き込まれたくない。三年の間だが、世話になった。それじゃ」

「待ってくれ、見捨てないでくれ」


 俺としてはさっさと出て行ってもらえればそれで良い。

 訪問家事をしてくる凪もいるんだ。同居人問題でこれ以上頭を悩ませたくない。


「荒谷さん」

「ん?」


 凪の方を向き、その目線を追う。

 いつの間に寮長の周りに三人ほど集まってる。全員女性だ。

 縋りつく存在がいなくなった市川を囲むと、すぐにリンチが始まる。


「うわ……」


 そして、他の寮生たち、といっても男どもは静観を選び窓からその光景を見るだけ、他の彼女たち加担することを選んだ女性陣は、市川の荷物を外に運び出す。


「はぁ……」


 流石にやり過ぎだな。


「荒谷さん?」

「あぁ、ちょっとまぁ、一市民の義務を果たすよ」

「はぁ」

「凪は、どうした、そんな冷たい目で」

「いえ、市川さんと付き合っていた時、あの人たちは楽しく無かったのかなと」


 どこか遠い目で、市川がぼこぼこにされている光景を眺めている。


「まぁ、あいつはそこそこデートプランとか気を使っていたからな。多分、彼女たちの好みとか把握して考えていたはず。誕生日とかも欠かしてなかったし」


「そうですか。凄いですね、ほんの数日前までは楽しく過ごしていた相手を、こうもリンチできるって」

「……どうした?」


 薄茶色の長い髪が、スカートが、風に揺れた。

 今日の凪の格好は黒で統一されている。その姿には儚い美しさが宿っている気がする。


「それとも、あの人たちは、裏切られたという現実をすぐに受け入れられて、すぐに反応を現実に行動として表せたのでしょうか。楽しかったころの時間を、今殴りながら思い出したりしないのでしょうか?」


「こういう時って、怒りが先に来るんじゃない?」


「そうでしょうか? 私は、そうは思いません。信じられない、信じたくない。嫌だ。怒りなんかより、今目の前にある現実を否定したい感情が、浮かんでくると思います」


 思いつめたように俯き、そして、顔を上げる。


「……でもそうですね。このままじゃ駄目ですね」

「凪?」


 そんなことを話している間に、パトカーがやって来た。

 すぐに事態を察して、その収拾に努めてくれた。


「やー。ありがとう荒谷」

「別に。犯罪者を公権力に突き出しただけだ。……お前、意外とケロッとしてるな」

「まーね。今までで一番ヤバかったけどな」

「懲りろよ。というか、これが一番なのか、俺が思うにもう少しひどいのあったと思うが」

「どうだろ」


 凪よりもこいつが理解できない。人一人を三年で理解しよう、そう思う方が馬鹿だが。


「僕は一生、このままな気がするよ」


 自嘲するように、市川は笑った。




 「おはようございます。荒谷さん」

「……はぁ」

「起きて早々ため息とはいただきませんねぇ」


 凪はとうとう、モーニングコールをすることにしたのか。

 今まで決して足を踏み入れなかった俺の部屋に、遂に入って来たのだ。

 目を開けると、さらさらと流れるような薄い茶色の髪と、整った顔立ちが目に入った。

 両目は真っ直ぐに俺を見ている。これで彼氏がいないというなら、余程性格に難があるのだろう。実際俺はこの子のせいで、そこそこ悩みの種を抱えている。


「なにしてんだ?」

「前も言いましたけど、健全な創作は、健全な生活習慣からです」

「馬鹿言うな」

「早死にしますよ」

「大体の作家はわりと早死にだ」


 我ながら、大いなる偏見である。


「それで、俺は朝っぱらからこんな所でなにしてんだって聞いているんだ」

「荒谷さんに提案がありまして」

「ほう」


 悪い予感しかしないが、聞こう。


「荒谷さん、毎日三千字くらいの短編、書きませんか?」

「おやすみ。今日三限からだから」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 予感は的中した。俺は眠る事により逃げを選ぶ。


「まだ話は終わってません!」

「……なんだよ? 俺はもう書けない」

「でも、書きたくないわけではない! 書けるなら書きたい! そうでしょう!」


 確かに、俺は、書きたくないとは、一言も言ってはいなかった。


「そうだな、書けるなら、書きたいな」

「なら!」

「でも俺は、書きたいことは、書き尽くしたとも、言ったろ」


 だから、もう。


「そんなわけがない。書きたいことを書き尽くした事なんてこと、あるわけない」

「なんでそう言い切れる?」


 俺の中は、もうすっからかんだ。

 もう、書けない。


「だって、もう何もできない人は、笑えるんです。笑って、やめるんです。荒谷さん、今のあなたは、笑えますか? 心から笑って、書けない。辞める。って言えますか?」


 その時、俺は何故か、凪の言葉に説得力を感じてしまった。

 後から振り返れば、それは、俺の中の願いが、説得力を持たせていたのかもしれない。


「……俺が短編書いたら、どうするんってんだ?」

「毎日短編。さらに長編も書いてください。その長編が、私がお腹いっぱいになるような話でしたら、荒谷さんの希望に従います。二度と話しかけるな、家に来るなと言うなら、それに従います」

「ほう」

「顔を見せるなと言うなら、荒谷さんに引っ越しの費用と当面の生活費を包みましょう」

「……お前、狂信者の域に達してないか?」

「荒谷さんは、恩人ですから」


 照れるように笑う場面か? ここ。


「俺が書きたくて書いた話だぜ」

「恩を感じるのに、許可がいるのですか? 神薙先生」

「……その名前で呼ぶな」


 凪の口が弧を描く、慈しむように目が細められ、目を閉じて、決心したようにうなずいて、真っ直ぐにな視線を向けられる。


「書いてください。もう甘いのは良いです。そう言いたくなるくらいの、とびっきり甘いお話を!」


 いつものように、無茶言うなとか、馬鹿な事言ってないで帰れ、とか、そう言いたかった。

 でも、俺は逃げてるのではないか、と思ってしまったんだ。

 一度は人生を捧げよう、そう思った事だ。なのに、俺は。


「これから、私に毎日一本、短編を見せてください。サボった場合、私の言う事、一つ聞いてもらいます」

「短編を書きつつ、お前が納得するような長編を書き上げろ、そう言っているんだな」

「はい、その理解で大丈夫です」


「……なるほど、圧倒的お前有利だが、お互いメリットがあるな」


「その圧倒的有利は、一人暮らしのあなたの家事の時間の負担を、私が肩代わりすること。あとはまぁ、私があなたに酷い事されたと、泣いてお父さんに言えば、あなたを追い出すことは簡単である、ということでしょうか? それに私が気づいてしまったのが、あなたの運の尽きです」


「無理矢理書かせないんじゃなかったのか?」


「私は決心しました。だってこのままではただの通い妻じゃないですか。確かに、恩返しも兼ねていました、けど、荒谷さんがこのままで良いはずがない! それに、あなたの書いた小説が言っていたことを思い出しました。願うだけで手に入るものがあるなら苦労しないって」


 奥歯が嫌な音を立てて擦れる。

 これが最初から計算した上でやった事じゃないのが恐ろしい。

 だって、彼女は無理矢理やったことでも、俺は助かっていたのだから。その事実をさらっとぶら下げているのだ、彼女は。

 そして、俺自身が書いたことを引用してくる。

 俺の理想論を振りかざされる。


「毎日、夕飯までに一本。それでどうでしょう?」

「……バイト……」

「市川さんが言ってたのですけど、親の仕送り、手を着けてないそうじゃないですか。というか荒谷さん、連載していた時、バイトしながら書いていたのではないのですか?」

「……わかった。お前の話に乗ろう。だが、俺がお前が最高といえる長編を書いたら、俺の言う事、従えよ」

「はい。もちろんです。あ、あと、毎日日記をつけてください」

「……わかった」


 俺が書けない、そうタカをくくっているわけではなく、本気でそれを望んでいるように見えるのが、本当、信者染みてる。

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