第83話

「す、凄い、修羅蜈蚣の甲殻を、一撃で……!」


 ルルリアは地面に這いつくばりながら、へレーナの奮闘を眺めていた。


 本来、修羅蜈蚣は竜章持ちの一流の騎士で編成された部隊でさえ全滅の危険性が高いような魔物である。

 実際、たかだか騎士見習い五人、百回戦っても一矢報うことさえ叶わない内に百回滅ぼされるような、それだけの相手であった。

 だが、今回の戦いでは、へレーナが竜章持ちの騎士でさえ突破できない、修羅蜈蚣の人面の仮面に亀裂を入れたのだ。


「フ、フフ……一撃じゃありませんわ。皆さんが先に攻撃してくださっていたお陰ですもの」


 へレーナは掠れた弱々しい声であったが、気丈にそう口にした。


「あの子……あんなに強かったの」


 マリエットが驚いたようにへレーナを見つめていたが、すぐにさっと顔を青くした。


「に、逃げるわよ! その怪物……まだ、生きてる!」


 マリエットが叫んだ直後、修羅蜈蚣の全身が震え、脚が再び蠢き始めた。


「ギ、ギ、ギ、ギ……!」


「くたばれ蜈蚣野郎が!」


 直後、〈羅刹鎧らせつよろい〉の赤い光を纏ったギランが、修羅蜈蚣へと突進した。

 地面を蹴り、刃を人面の亀裂にねじ込むように突き入れ、そのまま肉の奥に肩までうずめていた。

 修羅蜈蚣の全身が再び激しく痙攣したかと思えば、その全ての脚の動きがどんどんと鈍くなっていき、ついに修羅蜈蚣は力尽きた。


 その様子を見届け、ルルリアは安堵の息を溢した。

 

 ギランは蜈蚣の肉塊から刃を引き抜く。

 全身に修羅蜈蚣の、赤茶色の体液を浴びていた。

 さすがにマナが尽きたらしく、ふらふらと壁に手をついた。


「ハッ、害虫退治が終わったところでなんだがよ、最悪の気分だぜ。錆臭くてたまらねぇ」


 口振りとは反対に、ギランは高揚している様子であった。

 なにせ巨鬼級レベル5を騎士見習いのみで討伐するなど、これまでほぼ前例のないことであっただろう。

 相性がよかった。

 条件がよかった。

 その上で運も味方した。

 だが、それでも、それを手繰り寄せたのは自身らの行動によるものなのだ。

 そのことは間違いない。


「そ、そうです! まだ、ハームが……!」


 ルルリアは修羅蜈蚣の頭へと目を向けた。

 そこに道化の悪魔の姿はなかった。

 いや、思えば、へレーナが反撃に出た辺りからハームの姿がなかった。


「逃げちまったんだろ。あいつは元々、散々アインに斬られて、まともにマナが残ってねえみたいだったからな」


 ギランが小馬鹿にしたように笑った。


「まあ、助かるぜ。あのクソ野郎をぶった斬れなかったのは残念だが、こっちも生憎余力がねえ。まともに騎士が捜査に入れば、あんな小物悪魔くらい始末してくれるだろうよ。それより、今の体力で迷宮の入り口まで帰る術を考えねえとな。この辺りで待機して、救助が来るのを待った方がよさそうだが……」


「小物で悪かったねぇ」


 いつの間にやらへレーナの背後に回り込んでいたハームが、彼女の首を掴んで持ち上げ、ギランへとその無機質な目を向けた。


「テ、テメェ!」


 ギランはハームへと刃を向ける。


「ヒ、ヒヒ、いやはや驚いた。修羅蜈蚣がまさか、君達如きに始末されるなんてねぇ。悪戯心が先立って、君達を弄んでいたボクのミスだよこれは。ヒヒヒ、だけど、ここまでだ。ボクだって、弱っているとは言え、瀕死の雑魚五人始末するくらいお手の物なんだ」


 ハームはヘレーナの首を掴んでいるのとは、逆の腕を宙へと掲げる。

 毒々しい赤に輝く爪が、ナイフのように伸びていく。


「ヒヒヒ、ボクらだってねえ、死ぬのはごめんだ。でもね、悪魔の死生観は、君達ニンゲンとは違うのさ。ボクが死ねば、それだけボクが殺せるニンゲンの数が減る。だから死ぬのを恐れるのさ。でもね、そんなボクにだって、死ぬよりも嫌なことがある。それはね、目を付けた弱っちいニンゲンに散々虚仮にされた挙句逃げられて、連中の生暖かいハッピーエンドを許容することさ」


「ひ、人質のつもりですか! どこまでも卑怯な手を!」


 ルルリアはハームを非難した。

 だが、ハームはそれを聞き、口を大きく開いて笑みを浮かべた。


「人質? ヒヒヒ、それもいいけれど、勘違いをしないでくれ。ボクが多少弱っているとは言え、今の君達を全員殺すのに、人質なんていらない。こいつは、君達の前で惨殺する。それによって、君達に、君達の魂に、無力感と絶望感、そして恐怖を刻み込む。ヒ、ヒヒ、ボクの身体、よく変形するだろう? ニンゲンを拷問してから殺すのに持ってこいなんだよ。これまで散々馬鹿にされたんだ。君達全員に、生まれてきたことを後悔させる。そうだね、ちょっとばかり予想外だったけれど、考えようによってはこれでよかったのかもしれない。修羅蜈蚣で殺しきれなかったからこそ、衰弱した君達を弄ぶことができる。こいつが終わったら、その次はどいつにしようかな?」


 ギランは歯を食いしばり、ハームを睨みつける。

 全員、意識を保っているのもやっとの状態なのだ。

 文字通り死力を出し切り、修羅蜈蚣の討伐に当たった。

 もう、ハームに抗う術がない。


「ヒヒ、ヒヒヒ、ヒヒヒヒ。いい表情だよ、諦めまいとしながら、心のどこかで死を受け入れ始めている、そういう顔だ。その顔がだんだんと歪んでいくんだ。ああ、ああ、ボクはそれが、楽しみで楽しみで仕方がない。雑魚の分際でこのボクをあれだけ馬鹿にしてくれたことを、たっぷりと後悔しておくれよ。そのお陰で、ボクの嗜虐心がこれだけ刺激され……」


「〈轟雷落斬〉!」


 天井から落ちてきた赤い雷が、ハームへと直撃した。

 ルルリアはそう錯覚さえした。

 捕まっていたヘレーナは、勢い良く地面に投げ出された。



「ヒェ……?」


 真っ二つになったハームが、左右で別々に声を漏らしながら倒れていく。

 身体を維持できるマナがもう残っていないらしく、左右の身体が光の粒へと変化して崩れ去っていく。

〈剛魔〉の赤い蒸気が昇る中、ゆらりと紫の長髪の男が立ち上がった。


「カ、カプリス……王子……」


 ルルリアはその男を目にし、そう零した。

 

 カプリスは高レベルの悪魔を叩き斬ったというのに、ハームの死骸には一切目もくれない。

 ルルリア達を見回し、顔を顰めた。


「む……? 余のアインが封鎖中の迷宮に入り込んだと聞いて、制止する教師を二、三人ぶん殴って追いかけてきたというのに、いないではないか。アインはどこにいるのだ?」


「え、えっと……あ、あの、ありがとうございます。貴方のアインじゃありませんけれど……」


 ルルリアはカプリスの変人振りに混乱しつつも、彼へと礼を口にした。

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