第66話

 マリエットは目前の悪魔、ハームへと刃を向ける。

 ハームは大きく裂けた口で笑みを作る。


 マリエットはハームと対峙しただけで、身体が芯から冷えてくるのを感じていた。

 相手の佇まいだけで力量差がわかる。

 ハームは、三人を前に、明らかに負けることを想定していない。


 額から冷や汗が垂れた。

 マリエットは息を呑み、背後の二人へと目を向けた。


「……私が戦うから、二人は逃げなさい」


「さっ、さすがに、マリエット様残して逃げるだなんて、そんなわけにはいきませんよ!」


 ロゼッタが慌ててそう口にする。

 マリエットは目を細め、彼女を睨む。


「貴女達なんかじゃ、時間稼ぎにもならないわ。力不足なのよ。邪魔だから、とっとと下がってて。こいつはバグベアなんかとは桁が違うわ」


「ううっ……。そ、それでも……!」


「学院に情報を持ち帰らないと、大変なことになるわ。騎士なら、私情より国のために動きなさい。学院迷宮の地下に悪魔が潜んでいたなんて大事件よ。つまらないプライドで命を捨てるのは結構だけど、人に迷惑が掛からないときにするべきね」


 マリエットが冷たい言葉を吐き捨てる。

 ロゼットは俯き、背後の通路へと駆け出した。


「ごめんなさい、マリエット様……! 絶対にご無事でいてください!」


「ヒ、ヒヒ、あ、ああ、必死に頑張っちゃって、可哀想……。だって、それも無駄になるっていうのに! これまで潜んでいた僕が、ヒヒ、目撃者を逃がしたりなんてするわけないのに!」


 ハームは地面を蹴り、ロゼッタの後を追う。

 その奇妙な長い足は、人を真似て雑に作られたような構造をしており、人間の関節とはやや異なる。

 独特の走り方で、されど高速でロゼッタへと迫る。


 マリエットはハームの動きに意表を突かれたものの、素早く横へと跳んで腕を伸ばす。

 だが、ハームは身体を捻り、その刃を避ける。

 僅かに届かない。


 マリエットとは反対側から、ミシェルがハームへと刃を振るった。

 ハームは避け損ない、腕で防いで背後へと跳んだ。


「ミシェル!」


「伝令役は、一人で充分ですの」


「貴女がいたって、勝てる相手じゃ……!」


「確かにつまらないプライドかもしれませんの。でも、貴女と地獄にお供するのは、私にとって命を懸けるだけの価値のあることですの」


 ミシェルは短剣を振るい、ハームへ構える。


「ありがとう……ミシェル」


 マリエットはそう口にしてから、ハームを睨み付ける。


「残念だったわね。今からあの子を追えば、私達を逃がすことになるわ。どちらにせよ、貴方の存在は露呈することになる。私達が勝てなくても、学院が総力を挙げて貴方を殺しに掛かるわよ」


「あ、ああ、そうか……ヒヒヒ、ああ、それは、お互い不幸なことだねえ」


 ハームはわざとらしい動作で口を隠して笑う。


「どういうこと?」


「どど、どういうこと、だろうね? ヒヒヒ。そ、それより、いいのかい? 格好よく逃がしちゃったけれど……ヒヒヒ、本当は後悔、してない? わざわざ逃げる言い訳まで与えて、逃がしちゃって……。でも、本当に本心からのこと、なのかな? 本当は助かりたいでしょう? あの子は、君達二人が意地になって助けるだけの価値のある子なのかな? 本当に?」


 ハームはマリエットの顔を見つめ、そう語り掛ける。

 長々と、ゆっくりと話しながら顔色を窺う。

 まるで、心の弱いところを探り当てようとしているかのようだった。


「貴方達悪魔は可哀想ね」


 ハームの意図とは反対に、マリエットはそう吐き捨てた。

 ハームの口許が歪む。


「所詮瘴気の塊だから、百年掛けたって自分より大切なものを何一つ見つけられやしないんでしょう。だから信念も恥もなくて、私達の気持ちが理解できないのよ。悪魔って初めて見たけど、こんなに孤独で、哀れな生き物だったのね」


 マリエットの言葉に、ハームの全身が震え、手足が膨張し、指先から爪が伸びた。

 明らかに怒りを示していた。


「そうかい、そうかい、高尚なお考えだ。言葉で揺さぶれないなら、甚振って心を折ってあげるよぉ!」


 ハームが地面を蹴り、マリエットとミシェルへと飛び掛かってくる。


「ミシェル、私から離れないで!」


「わかってますの!」


 ハームは明らかに二人より速く、力もある。

 常に数の利を充分に活かさなければ、まともに戦うことはできない。


 ミシェルが素早くハームの死角に回り、肉薄する。

 ハームは首を歪な角度で曲げ、長い腕を撓らせてミシェルの腹部を打つ。

 破裂音に似た鋭い音が響く。


「かはっ!」


 ミシェルの身体がくの字に折れ、口から咳に混じって血が飛んだ。

 地面に身体を打ち付け、転がった。


 その間にマリエットが逆側から刃を振るう。

 だが、ハームの身体が歪に折れ曲がり、彼女の刃を回避した。


「関節、どうなってるのよ貴方……!」


 隙を晒したマリエットへ、ハームは素早く腕を打ち付けようとする。

 マリエットは屈んで避け、追撃を地面を転がるようにして躱す。

 離れ際に、腕へと一撃をお見舞いした。


 ハームの腕に斬撃が走り、半分近くまで斬れた。

 黒い血のようなものが垂れる。


「あ、ああ……頑張った……頑張ったねえ」


 ハームは自身の腕を見て、感心したように口にする。

 だが、腕が細かく振動したかと思えば、あっという間に肉が生え、傷口が塞がった。

 再生能力が高すぎる。


「むむ、無意味、だけどね……ああ、可哀想、可哀想……ヒヒッ」


「どうしろっていうのよ、こんなの……」


「ちょっと本気、ヒヒッ、出しちゃおうかな?」


 ハームが両腕を後ろへと伸ばす。

 両腕が震えたかと思えば、ゴムが引き伸ばされていくかのように、その長さが増していく。

 倍以上にもなっていた。


「何を……」


 次の瞬間、ハームが鞭のように両腕を素早く振るった。

 辛うじて起き上がっていたミシェルは、どうにか身体を逸らして腕を避ける。

 だが、素早く腕は地面を跳ね、ミシェルの身体を打った。


「嘘……さっきより、遥かに重……!」


 宙に浮いた彼女の身体に、三発目が放たれる。

 床へと叩き付けられた。

 そしてその上に、容赦なく四発目が叩き込まれる。

 叩き付けられたショックで半ば意識を手放していた彼女は、完全に無防備の状態で四発目の直撃を受けた。


 腕を垂れさせ、身体を痙攣させる。

 手から剣が離れていた。

 もう、まともに立ち上がることさえできる状態ではなかった。


 マリエットは剣を縦に構えて受け、鞭の衝撃を利用して後退して間合いから逃れ、被害を抑えていた。

 だが、掠めた手の甲は皮が剥がされて血塗れになっており、刃越しに鞭の衝撃を受けた際に胸骨にダメージが響いていた。


「よ、よく耐えたねえ、ヒヒ、ヒ……でも、次のは、どう……」


「次はないわ!」


 マリエットは地面を蹴り、ハームへと跳んだ。

〈軽魔〉を用いた歩術で一気に距離を詰める。


「ヒ……?」


 ハームの左腕は、間合い外に逃れたマリエットを追って、最大まで伸ばされていた。

 今は、だらしなく床に垂れている。


「随分と舐めてくれたものね! そんなに伸ばして、仕留め損ねたときはどうするつもりだったのかしら!」


「そんなの、簡単……」


 ハームは右腕を引き戻そうとした。

 だが、腕が動いた瞬間にミシェルが右腕にしがみつき、思いっきり噛みついた。

 それでも腕の動きは止まらなかったが、ミシュルを引き摺っているため速度が乗らない。


「チィッ!」


 ハームは後方へ跳ぼうとする。

 だが、振り切れない。

 両腕を大きく無防備に伸ばした状態で、マリエットの肉薄を許すことになった。


「貴方の再生能力……なかなかのものだけれど、完全に切断したらどうなるのかしら!」


 マリエットは剣を片手持ちに切り替え、逆の手で魔力の爪を伸ばす。

〈魔獣爪〉である。


「まさか……!」


「これで終わりよ!」


 マリエットが爪と刃を力任せに振るった。

 ハームの両腕が千切れ、黒い飛沫を上げた。


「あっ、ああ、あああああっ! そんな……この僕が、たかだか騎士見習い如きにっ!」


 ハームが悲鳴を上げる。

 マリエットは身体がふらついたものの、背後へ逃れようとするハームを追う。

 ハームを仕留めようと刺突をお見舞いするが、ハームは歪な動きで横へと逃げた。


「なんてね」


 ハームの腕が震え、切断面から瞬時に新しい腕が伸びる。

 マリエットは目を見張った。


「そんな……!」


「ヒッヒヒ、ヒヒヒヒ! ああ、その顔が、その顔が見たかったんだよ! ニンゲンが絶望するときの、その顔、顔! 顔顔顔顔顔!」


 ハームは力任せの一撃によろめいたマリエットへと肉薄し、彼女の頭部へと両腕を回して押さえつけ、顔面に膝蹴りをお見舞いした。

 間を置かず右手で頭部を地面に叩き付け、左肘で後頭部に追撃して挟み撃ちにする。

 周囲にマリエットの血が飛んだ。


 マリエットは辛うじて首を倒し、霞む視界でハームを見上げる。

 意識は半ば途切れており、もう睨む気力も残っていなかった。


「た、ただの雑魚だったね、ヒヒヒ。ね、ねえ、訊きたいことがあるんだけど、僕がお遊びで嗾けた修羅蜈蚣、殺したの、誰?」


 ハームは屈んで、マリエットの髪を掴んで持ち上げ、視線を合わせる。

 マリエットは力なくハームを見上げていたが、ついに完全に意識を失ったらしく、地面へと目線を落とした。

 ハームはミシェルへと目を向けるが、彼女も既に意識を手放している様子だった。


「ま、まぁ……いいや、ヒヒ。どの道、生かして連れていく必要があったんだ。ゆっくり聞かせてもらうよ……ゆっくり、ゆっくりね」

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