第5章 andante

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彼…大田君と別れた後、真っ直ぐ自宅に帰る気にもなれず、自宅から程近い居酒屋に立ち寄った。


別れた彼女とも度々訪れたことのある店だ。


カウンターの一番端の席に座り、好物の貝の刺身をツマミに焼酎をロックで煽る。

暑い日にはやっぱりこれに限る。


尤も、スーパーで買って自宅で…ってことも出来なくもないが、居酒屋で飲む酒は、決して静かではない店の雰囲気も相まって、格別に美味い…


筈なんだけどな…


今日に限っては、何を口にしても砂でも噛んでるみたいに、味がしない。


いつもの俺なら、飛び上がるくらい、美味く感じる筈なのに…


「珍しく酒の進みが遅いですね?」


グラスの酒が減らないのを気にしたのか、店主がカウンター越しに声をかけてきた。


「い、いえ、そんなことは…」


俺は咄嗟にグラスを傾けたが…やっぱり美味くない。


「あれ? そういえば今日はお一人ですか? お連れさんは?」


“お連れさん”というのは、俺の解釈が間違っていなけれは、“ 元”彼女のことを指してるわけで…

予想はしていたことだけど、改めて問われると返答に困ってしまうが、嘘をついたところで今更事実は変えられない。


「彼女とは別れたんですよ」


俺は苦笑を浮かべつつ、


「俺、振られちゃったんです」


ありのままを話した。


すると店主は、一瞬気まずそうな顔を浮かべたが、すぐに愛想笑いに変えると、


「あんたを振るなんて、よっぽど見る目がなかったんだな」


そう言って、俺の前に芋の煮っころがしが入った小鉢を差し出した。


「ま、これでも食って元気だしな」


「は、はあ…」


彼女に振られたことへの同情…のつもりだろうか…?


つか、俺はそんなに落ち込んでるように見えるのか?

実際はそうでもないんだが…


何せ俺の心にはもう彼、大田君がいる。


ずっと探していた大田君と再会し、彼の現状を知った今、俺の彼への想いはより一層大きく、そして強くなっている。


俺は間違いなく彼が好きだ。


八年間付き合った彼女の顔すら朧気になるほど、ね…


自宅に帰り、モアッとした空気が冷えるまでの間、シャワーを浴びた。


一日外回りでかいた汗を洗い流すと、身体がサッパリするのと同時に頭もスッキリしてくるような気がして…


さっき全く酔えなかった分を取り戻そうと、冷蔵庫にストックしてあったビールを片手に、ソファーの上に胡座をかいた。

プルタブを引いて、洗い物の面倒を避けるため、缶に直接口を付けた。


「うんめ…」


キンと冷えたビールが、喉元を通り過ぎる度に、身体の火照りが取れていくような気がした。




あっという間に空になった缶をローテーブルに置き、ソファーにゴロンと横になる。

そうすると、決まって脳裏に思い浮かぶのは、彼の笑顔と、そしてあの透き通った歌声。


彼と初めて会ったあの日以来、ずっとこの調子だ。


しかし今日はやけに彼の顔が鮮明に浮かぶ。


あ、そうか今日彼に会ったんだっけ…


あの雨の日以来、俺の心に芽生えた疑問の答えと共に、ずっと探し続けていた彼に、漸く俺は会えたんだ。

理由こそ聞かなかった…いや、聞けなかったけど、彼があの奇跡とも思える声を失っていたことは、俺にとってもショックではあったけど、それでも彼と会えた喜びの方が大きかった。


それに思った以上に、俺が大胆な人間だってことも知れたし…、って俺、馬鹿じゃん…?


俺はソファーの上で勢い良く身体を起こすと、両手で頭を抱え込んだ。


「何やってんだよ、俺は…!」


大田君に自分の気持ち(と言っても告白をしたわけではないが)も伝えたし、もう一度会いたいと、連絡先だって渡した。

でも名刺には、俺の名前と電話番号が書いてあるだけで、アドレスなんてのは一切書かれていない。


口がきけなくなった彼に、電話をしてくれ…なんて、配慮が足りないにも程があるってもんだろ…


「ああ…、最悪だよ…」


絶対嫌われた…、そう思って頭を乱暴に掻き毟った丁度その時、テーブルに置いたスマホがけたたましく鳴り響いた。


まさか…?


俺は咄嗟にスマホを手に取り、画面を見ることもなく耳に当てた。

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