黙り込んでしまった雅也さんを前に、俺は財布の中にそっと忍ばせた、しわくちゃになった小さな紙を思い出していた。

桜木さんの名前が記された名刺だ。


衝動的にゴミ箱に投げ入れたものの、やっぱりどうしても捨てられなくて、出かける間際になって拾った物だ。


捨てた、なんてのは全くの嘘。

一度胸の底に芽生えてしまった“好き”って気持ちは、そう簡単には消せやしない。


嘘をついたのは、俺だけが幸せになってもいいのかっていう、単純に和人に対する罪悪感から…


そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、雅也さんはプッと吹き出すと、俺の鼻の頭を指でピンと弾いた。

ツンとした痛みが鼻の奥まで走り、俺は涙目になりながら雅也さんを睨みつけ、両手で鼻を抑えた。


「はは、ごめんごめん(笑) って言うかさ、智樹って本当に下手だよね、嘘つくの。さっきから鼻ヒクヒクしてるよ?」


言われて、和人も同じことを良く言っていたの思い出した。


「智樹が嘘ついてるかどうかなんて、鼻を見ればすぐ分かるんだよ?」


…って、意地悪に笑いながら、鼻を思いっきり摘まれたりさたっけ…


「本当は捨ててないんでしょ? それくらい好きなんでしょ、その人のこと」


それまで絶やすことのなかった笑顔が、一転真剣な表情に変わった。


「だったらさ、自分の気持ちに正直になっても良いんじゃない?」


『無理だよ』


「なんで? 和人のことがあったから? 和人に申し訳ないとか思ってる?」


その問いかけに、俺は静かに頷いた。


お互い本気の愛し合ってた訳じゃない。


でも、一緒に暮らす中で、ぽっかり空いた隙間を埋め合って来たのは事実で、全てを満たすことは出来なくても、そこにはちっぽけではあるけど、“愛情”ってやつは存在していた筈だし、そうじゃなかったら俺達一緒にはいなかっただろうし…


だからこそ、和人がいなくなったからと言って、自分だけの幸せなんて考えちゃいけないような気がして…


それに…


『あの人、ノンケだし…』


サラッと書いて、メモ帳を雅也さんの前に突き出す。


「え、マジ…で…?」


俺とメモ帳とを交互に見る雅也さんの顔が、一瞬にして苦笑に変わった。


『多分』


直感でしかないけど、俺がそう思ったんだから、多分間違いはない筈。


「で、でも、智樹はその…“タチ(攻め)”なわけじゃん? だったら…」


確かに、ノンケの人にとっては、男を“抱く”行為に比べれば“抱かれる”方が、よっぽど嫌悪感みたいなモンは少なくて済むかもしれない。


雅也さんがそうだったように…


“でも”、なんだよな…


「あの…さ、まさかとは思うけど…、その“まさか”なの?」


図星を指された俺は、項垂れたまま一つ息を吐き出した。


これまで和人以外にも何人かと関係を持ったことはあったけど、ただの一度だって、自分が抱かれたいと思ったこともないし、ソッチの経験だってゼロだ。


なのに桜木さんに腕を引かれた時、不覚にも”この腕に抱かれたい”って思っちゃったんだよな…、まだ数える程しか会ったこともない人に、何故だか分かんないけど…


「そっか…、だとしたらちょっとハードル高いかもね?」


そうだよな…

元々女しか愛せないノンケの人が、男相手に勃つか…って言ったら…、難しいだろうな…


『やっぱ無理…』


「諦めるの? 好きなのに?」


違う、そうじゃない。


好きだから…、だからこそ傷付きたくないし、あの人を傷付けたくない。


だったら、今よりももっと気持ちが大きくなる前に、スッパり諦めた方が良い。


「そっか…。智樹がそう思うなら仕方ないか」


『ごめん…』相談にまで乗って貰ったのに…


雅也さんに頭を下げ、今度こそ…と腰を上げた俺を、再び雅也さんの手が引き止めた。


訝しむ俺に、雅也さんの笑顔が向けられる。


つか、嫌な予感しかしないんだけど…?


「ねぇ、帰るつもり? バイトしに来たんでしょ?」


マジか…、俺騙されたんじゃねぇの?


でも…、今の俺じゃまともな働き口もないし、仕方ないか…




うん…、仕方なかったんだ。


だって一度は消した筈の火を、再び灯すことになるなんて…想像もしてなかったから…

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