「ねぇ、ところで今何時? 俺、時計とか持ってないから、分かんなくて…」


ズッシリと重いリュックに、彼の手によって購入時みたく綺麗に畳まれた傘を仕舞い、俺は腕時計に視線を落とした。


「えっと…、丁度11時を過ぎたところかな…」


「え、嘘、マジで…」


突然、キャップを被った頭を両手で抱え、彼がしゃがみ込む。


「バス、もう終わってるよ…ね?」


「そう…だね、この時間だから、多分…」


「うわぁ…、マジか…」


何か急ぎの用事でもあったんだろうか…

それとも恋人が部屋で待っている…とか…?

恋人はいる…みたいなこと言ってたし…


彼はしきりに首を捻っては、深い溜息を漏らした。

そうなると放っておけなくなるのが、俺の性分で…


「あの…さ、もし良かったら一緒に乗ってく?」


俺はロータリーでハザードランプを点滅させ並ぶ、タクシーの列を指さした。


「マジで? いいの?」


物騒な世の中だ、いくら男とはいえ、こんな時間の一人歩きは危険だ。

それに…、一見すれば女性に見えなくもないし…


「あ、でも、方向が同じなら…だけど…」


「めっちゃ助かる〜」


って、人の話聞いてる?


目を輝かせ、勢い良く立ち上がった彼は、俺の腕に自分の腕を絡めると、俺を引っ張るように、早足かつ大股で歩き始めた。


「ね、早く早く!」


「えっ、ちょ、ちょっと…」


…って、やっぱ人の話聞いてないし…


俺を引き摺るようにしてロータリーに向かった彼は、先頭で待つタクシーのドアを叩くと、我先にと車内に乗り込んだ。


「お兄さんも、早く乗って?」


「あ、ああ…うん…」


仕方ない…、同乗しないかと言ったのは俺だし、彼を一人放っておけないと思ったのも事実。

俺は一つ息を吐き出すと、タクシーに乗り込んだ。


…のは良かったんだけど…


まさか彼のアパートが、俺のマンションとは全く逆方向だったとは、俺自身想定外で…

でも、彼のアパートに向かって走り出したタクシーを止めるわけにもいかず…


しかも、だ…


運転手にアパートの住所を告げた途端に、彼は大欠伸を一つしたかと思うと、数秒後にはそれは気持ち良さそうな寝息を立てて、俺の肩に凭れかかって来た。


嘘だろ…、この状況で、しかも初対面の男の肩に凭れかかって寝るかね、普通…


心の中で悪態を着きながらも、キャップを外した彼の髪から香る甘い匂いと、フワリとした猫っ毛に首筋を撫でられると、そう悪い気はしなくて…

寧ろ、そうだな…、初恋の時のような…、何とも言えない胸の高鳴りを覚えた。


相手はれっきとした男なのに…




やがて俺達を乗せたタクシーは、人気も…街灯すら疎らな住宅街の一角に止まった。


「お客さん、着きましたよ」


運転手に言われて、俺は彼の肩を揺する。

すると彼は瞼を何度か擦った後、キョロキョロと窓の外に視線を巡らせた。


「着いたって…」


俺が言っても、まだ夢見心地なのか、彼はボーッとしたままで…


「どこ? 良かったら送るよ?」


ここまで来たんだ、料金を気にしたって仕方ないし、タクシーは待たせておけば良い。

俺は彼の腕を引いて、タクシーを降りようとした。


でも、


「大丈夫…、一人で帰れる…」


彼は覚束無い足でタクシーを降りると、前髪を掻き上げ、手に持っていたキャップを目深に被った。


「ありがと…、助かった…」


ドア越しに彼が頭を軽く下げる。


「いや、俺は別に…。あ、それより君、名前は…?」


「俺…? 俺は、智…大田智樹…」


それだけを言うと、彼は踵を返し、ゆったりとした足取りで歩を進め始めた。


「俺は桜木翔真…。また、あの場所で会えるかな…」


なんでそんなことを言ったのか…、正直俺にも分からない。

でも彼の…大田智樹の歌が聞きたいと思ったのは本音で…


「ふふ、運が良ければね?」


振り向いた彼の、ほんの一瞬見せた笑顔に、心を撃ち抜かれたのも事実で…




それが、智樹との始まりだった。

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