媼憑(終) ※ガチホラー注意
小さな村では、噂というものはすぐに広まる。
家中を怪しげな札と塩で埋め尽くした私たちは、いつしか鼻つまみものとして敬遠されるようになった。
近所との付き合いも疎遠になり、頼る者のいない中、恐怖に怯える生活をしていた母は、日に日に衰弱していった。
そんな母を見ていて、一刻も早くこの村を出て、母を養っていかねば、と思った私は、大学へは行かず二年制の福祉系専門学校に通うことにした。
専門学校も、来春で卒業を迎える。ようやく、この息苦しい村を出ることが出来る。金沢に住めば、慈恵の住む光安寺もある。
今の私が願うのは、母が平穏な人生を歩むこと、ただそれだけだった。
明確な目標を持っていた私は、真面目に学業に取り組み、入学以来優秀な成績を修め続けた。
その日は、大雨が予報されていた。それはたちまち、嵐へと進化を遂げ、村にある小さな川を氾濫させた。
そんな状況なのに、私の通う専門学校は休校とはならず、私は律儀に最後まで従業を受けてから、合羽を着て帰路についた。
思えば、この判断が誤りだった。
丁度、私が家に着いた数分前に、母もパート先から帰ってきたらしい。下着までずぶ濡れになった私たちは、順に風呂に入った。
一息ついてから、夕食を食べていた私たちは――外の様子が気になり、私たちには珍しく、夕食時にテレビを見ていた所為か――、その音に気付くのが遅れてしまった。
ぴちょん。
ぴちょん。
ぴちょん。
断続的に聞こえてきた水音に、先に気付いたのは母だった。
水道の栓がきちんと閉まっていないだろうかと思ったが、そんなことはなかった。
嫌な予感がした私は、廊下に出て、物置となっている小部屋を見に行った。
案の定、その部屋は天井の隅から雨漏りをしていた。
慌てて雑巾とバケツを取りに行き、床を拭こうとした時に、ふと視界の端に違和感を感じた。
薄暗い部屋に目を凝らすと、何やら白い塊が落ちている。
その正体に思い至った時、全身から血の気が引いていく音が聞こえた。
札だ……。
水に濡れ、床に貼りつくように落ちていた札の文字は完全に滲み、その効力を失っていることは明らかだった。
と。
突然、家中の明りが失われた。停電したのだ。
嫌な予感がする。とてつもなく嫌な予感が。
私は、居間に戻って携帯電話を手にすると、震える指で電話帳を開き、『慈恵』の名を押した。
数回のコール音の後、電話に出た慈恵に事情を説明すると、慈恵はすぐに行くと短く返事をして電話を切った。
だが、ただでさえ車で二時間はかかる道程だ。この嵐の中、果たして辿り着くことが出来るのだろうか。
不安に押し潰されそうな私は、少しでも恐怖を和らげようと、携帯のライトを頼りに、今こうして日記を書き連ねている。
―――ここまでが、慈恵が到着するまでに書いた日記である。
そして、ここからは、これを読んでいるあなたへの、私からの最後のメッセージだ。
どん、どん、どん。
突然、戸を叩く音が聞こえ、私と母の方がびくりと震えた。
『慈恵です!ご無事ですか!』
外から慈恵の声が聞こえ、私たちは深く息を吐いた。
「はい、大丈夫です!」
叫ぶように返事をし、早足で玄関へと向かう。
がらり。
戸を開ける。
心配そうな表情をした、慈恵が立っていた。私は縋り付くようにして、慈恵の手を握った。
「良かった。慈恵さん、良かった……」
だが慈恵は、私の手を振り払うと、土足も構わずに上がり込んだ。
「いけません、急がないと!早く……。―――っ!」
慈恵が息を呑んだ。
私も、慈恵の視線の先に目をやった。
そこには、廊下に立ってにたりと笑う、大顔の老婆が、いた。
その姿は、母にも視えたのだろうか。
母はその場で失神し、床に倒れ込んだ。
「札のある部屋に入りなさい!早く!」
私は抜けそうになった腰を何とか立たせ、母を担ぐと、廊下の脇にある階段から二階へと上がり、六畳足らずの自室へと駆け込んだ。
『私が良いと言うまで、決して部屋から出てはいけません!』
階下から、慈恵の叫び声が聞こえた。
真っ暗な部屋に母を横たえ、私はポケットをまさぐった。だが母を担ぐ時に携帯を落としたらしく、私は部屋の中に一本だけあった蝋燭を見つけ、火を灯した。
古い木造の家だ。
薄い引き戸越しに、慈恵の絶え間ない念仏が聞こえてくる。
私は蝋燭の灯りを頼りに、最後の日記を書くことにした。最早これ位のことしか、私に出来ることは無い。
念仏が聞こえる。
時折、家中の柱がぎしぎしと、まるで悲鳴のような音を立てて軋む。
それは嵐のせいなのだろうか、それとも媼によるものか。
念仏が聞こえる。
一体何時間が経ったのだろうか。
母の寝室にある、振り子時計の鐘の音が聞こえ、丑三つ時に差し掛かったことを知る。
念仏が……止んだ。
一つの気配が、ゆっくりと上ってくるのを感じた。
気配は、部屋の前でぴたりと止まる。
『 ア ケ テ 』
明らかに慈恵の声では無かった。
部屋の四隅に置いた盛り塩が、ゆっくりと黒ずんでいき、戸に貼った札は強風に煽られたように波打った。
もう間もなく、媼がこの部屋へと入ってくることになるだろう。
私は最早、逃げ場が無いことを悟った。
私は目を閉じる。
父が死んだ、あの晩の情景が、克明に浮かび上がる。
今の私が願うのは、母が平穏な人生を歩むこと、ただそれだけだった。
今、この日記を読んでいるあなたへ。
私の人生はこれで幕を閉じることになるだろう。
もしあなたに、白いもやが見えているとするならば。
決して、何も、願ってはいけない。
媼は願いと引き換えに、あなたやあなたの大切な人の命を奪っていくだろう。
だから、決して何も願ってはいけない。
それだけが、この怪異から生き延びる、唯一の術となるだろう。
そして私は、自ら蝋燭の火を消した。
ギ マ
ツ ダ
オ エ
ハ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます