媼憑(4) ※ガチホラー注意
私が目を開くと、目の前には真白い天井があった。徐々に意識が覚醒し、私は一命を取り留めたのだと分かった。
老婆は、もういなかった。
私はほっと胸を撫で下ろす。
と、がちゃり、とドアが開けられる音が聞こえた。私は初めて、部屋にドアがあることを認識し、辺りを見回す。そこでようやく、ここが病室であることを知った。
入ってきたのは母だった。
「起きとったんか……」
母の顔は憔悴しきっていた。
私は、よほど心配をかけたのだろう、と心苦しくなり、元気なことをアピールするために、わざと飛び起きるようにしてベッドから降りた。
「大丈夫や、一晩寝たら元気なったし」
だが、母はそんな私の様子を見ても、いつものように微笑んだりしなかった。力なく、粗末な丸椅子に腰かけると、床に視線を落とした。
その姿に、私の知っている溌剌とした母の面影は微塵もなく、十歳もニ十歳も老けて見えた。
そして、消え入りそうな声で、私に言った。
「あんた、一週間も寝とったがや」
「え?」
「
お葬式?一体、誰の……?
私の心臓が早鐘を打つ。
母の様子から、嫌が応にも、身近な人の話であることが感じ取られた。
でも、まさか。そんな……。
「お父さん……。死んだ……っ」
父さんが……。
死んだ……。
それから、どれくらい泣いただろうか。
一週間もの間、寝ていた私の喉は、起きていきなりの酷使に耐えきれず、早々にしわがれた。それでも私は泣き叫び続け、今はもう、渇いた呼気が漏れるだけになった。
父の死因は、不整脈による心臓突然死ということだった。
だがその死に際には、奇妙な点があったらしい。
あの晩、父は私が振り絞った声に従い、私が持ち歩いていた清めの塩をばらまいた。すると、それまでもがき苦しんでいた私が、すっと静かになり、そのまま眠りに落ちたというのだ。
しかし、代わりに異変は父に起きた。
突然、何かに怯え始めた父は、やはり私と同じように、祝詞を唱え始めた。しかし私と異なり、胸の辺りを掻き毟りだした父は、間もなく到着した救急車によって緊急搬送されるも、病院に辿り着いてすぐ、息を引き取ったらしい。
奴の仕業だ。間違いない。
父は、私の身代わりとなって死んだのだ…。
その時、病室のドアがノックされた。
私が返事をすると、小太りの看護師が、少し戸惑ったような顔で入ってきた。
「あら、息子さん起きとったんですね。ほんならちょうど良かった。今、受付の方に、息子さんに会いたいって言う人が来とるげんけど、
「じけいさん、ですか?いえ……」
「あら、ほんならお断りしましょうか」
そう言って、あっさり立ち去ろうとする看護師を、私は慌てて呼び止めた。
「ま、待って!僕、その人に会いたい」
慈恵という名前には聞き覚えが無かったが、このタイミングで尼僧が現れたことに、何かしら意味があるのではないか…そう直感したのだ。
看護師は、母にも了承を得ると、病室の電話から受付へと連絡した後、戻っていった。
そして、程なくして、慈恵と名乗る尼僧が私たちの前に現れた。
「突然の訪問、失礼致します。
慈恵はぴんと背筋の伸びた、剃髪の尼僧だった。首筋や手の甲の皺を見るに、六十歳を過ぎる頃かと思われたが、その凛とした佇まいに、老人とはとても言えなかった。
こちらが質問をする前に、慈恵は疑問の答えを話し始める。
「私は、先週あなた方が宿泊された旅館の方から事情を聞き、こちらへ参りました。恐らく、良くないものが憑いているはずです。どうでしょう、お心当たりがあるのでは?」
心当たりはもちろんある。
だが、この慈恵という人物を信用できたわけではない。どこかから噂をかぎつけ、霊能力者の振りをして私たちを騙しに来た、詐欺師という可能性も捨てきれない。いや、むしろその可能性の方が高いのではないか?
信用に足る人物かを確かめるため、私は慈恵に問うた。
「例えば、どんな?」
慈恵は、こちらの猜疑心を見透かしたかのように、余裕のある笑みを浮かべて答えた。
「あなたには、白いもやのようなものが見えている。そして、そのもやは次第に小さくなっていき、いよいよ消えんとしたその時……あなたの目の前に、おぞましい姿の老婆が現れ、命を奪わんとした。違いますか?」
全てを正確に言い当てられ、私は自然と頷いていた。
「それは、『
「でも僕、あの白いもやが
「ああ、そうなの…」
慈恵は、気の毒そうに目を細めて私を見た。
「消えろ、というのも、また願いなのです。その祝詞が、果たして効果があったのかは分かりませんが…恐らく、媼はその念によってここまで成長したのでしょう」
その時の慈恵の言葉を、私は今日に至るまで、片時も忘れたことは無い。
私が日課としていた祝詞は、無意味どころか、あの恐ろしい怪異の餌となっていた。そして、その所為で父が死んだ。
私が、弟妹と父を殺したのだ。
「あの…でも、もうその媼いうのは、
私の絶望に気付かず、母が尋ねる。慈恵は首を横に振った。
「恐らく、いるでしょう。あれは人を一人殺しただけで消えるようなものではありません」
私はそれを知っている。何故なら父は、一人目の犠牲者では無いからだ。
「お父上に一旦乗り移ったことで、今はあなたを見失っているようです。ですが、媼は必ず、再び現れる。その時には、私を呼んでください」
そう言うと、慈恵は懐から何枚かの札を出し、私に手渡した。
「家に帰ったら、すぐにこの札を、全ての出入り口がある場所に貼ること。玄関だけでなく、窓や換気口など、外と繋がっている場所、全てです。それから、全ての部屋と廊下の四隅に、盛り塩を置くこと。外出の際も、札と塩を手放してはいけません」
慈恵の口調は柔らかだったが、何故か有無を言わさぬ迫力があった。私と母は、神妙に頷いた。それを見て、慈恵はふっと表情を和らげ、優しさをたたえた目をして言った。
「大丈夫。私が必ず、あなたたちを守りますよ」
その言葉で、恐怖心と父を失った悲しさで凍てついた心が、溶けるようにほぐれていくのを感じた。
既に枯れたと思っていた涙が、また一筋、私の頬を伝った。
慈恵と別れた私は、翌日には退院し、家に戻った。
大黒柱たる父のいない家は、何倍にも広く感じられた。
私と母は手分けをして、慈恵に言われた通り、ありとあらゆる場所に札を貼り、塩を盛った。貼り忘れや置き忘れは無いか、何度も二人で入念に確認をした。
そうして、媼に怯える日々を過ごし、七年が経った。
私は、成人を迎えた。
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