珍味!シェスネイク!(2)

東京に珍しく雪がちらついた、1月の終わりでした。


三つ編みの彼女は、凍った路面で滑らぬよう、靴底に滑り止めのついたゴムブーツを履いていました。

女子大生が履くにしては些か野暮ったい、そんなブーツでもきっと上機嫌な彼女を、今でも容易に想像することが出来ます。


---事件が起きた道路は、決して見通しの悪い場所ではありませんでした。


信号が赤から青に変わるのを、のんびりと待つ彼女の足下を、何かが通り過ぎました。

ぼろぼろになった、サッカーボール。


そして、彼女が振り返ろうとしたと同時に、薄着のやんちゃそうな男の子が、走り抜けていきました。

黄色信号を慌てて通り抜けようとした、黒いSUVの迫る道路に向けて、一直線に。


優しい彼女のことだから。

条件反射だったんだろうな。


子どもを助けるため、運動はからっきしのくせに、ヘッドスライディングをするように道路へ飛び込んだ彼女は……。




横断歩道の白いとこ以外を、踏んでしまったのです。




彼女は大学を辞めました。

サークルの全員が、彼女がいなくなったことを嘆き悲しみました。

けれども、三百人の涙を全部合わせても、私一人分の涙に満たないでしょう。


その大学に通うことを条件に、厳しい親から一人暮らしを許されていた彼女は、親元へと呼び戻されました。

彼女の父親は外資系大手企業の役員で、母親とともに海外に住んでいました。

彼女が突然姿を消してから二週間後……気が遠くなるほどに長い二週間後に届いた、ニューヨークからの手紙で、ようやく私は全てを知ったのです。


手紙には、事の顛末の他は、謝罪の言葉が三行、書かれているだけでした。


ペルー、行けなくてごめんね。

私たち、別れよう。他に良い人見つけてね。

ごめんね。


その三行だけが、何度も書き直され、黒ずんでいました。


なんだよ、ちくしょう。

もうパスポート取ったんだぞ。

だから、ニューヨークだって行けるんだ。

遠距離だって良いじゃん。俺たちならきっと大丈夫なのに。

ずっと寄り道なんかせずに、ただまっすぐ君を好きでいる自信があるのに。

ちくしょう。




それから四年が経ちました。


私は、JR東日本の駅員になっていました。

東京のあらゆる駅で、酔っ払いを注意し、電車遅延の理由を説明し、ドアに挟まれたサラリーマンを押し、吐しゃ物を掃除しました。


そしていつでも、開いたドアからホームへと流れ出す人波の中に、踊るように揺れる三つ編みを探していました。


そんなある日、私は上司に呼び出されました。


「お前、入社してからほとんど、休み取ってないよな。俺、怒られたんだわ、人事から。どっかでまとまった休み、取らせろって。だから、お盆過ぎたあたりで休み取って」


はい、と返事をしつつ、特に趣味もない私は、どうやって暇を潰そうかと考えながら、帰路に着きました。


そんな風に呆けていたから、最寄駅を降りた後、いつもの交番を曲がり損ね、気付けば大通りに出ていました。

はっとして今来た道を戻ろうとした時、何かがふと目に入りました。


大通りの向かい側、確か寂れたドラッグストアがあったはずの場所に、煌々と輝く看板。

彼女が、デザートのプリンをこよなく愛した、あの回転寿司チェーン店でした。

こんな所に出来たんだ……。


私は吸い寄せられるように、ふらりと店に入りました。


新規オープンしたばかりの店舗は、家族連れで賑わっていました。さっと見回した限り、一人なのは私だけです。


カウンターに座ると、コンベアに乗って運ばれてくる乾いた寿司を、適当に取っていきます。

五皿を食べたところで、早くも満腹感を得始めた私は、少し迷ってから、プリンに手を伸ばしました。


スプーンですくって口に運びます。

ただただ、懐かしさだけが舌の上に広がりました。


その瞬間。

全く唐突に、丹田のあたりから熱い何かが湧き上がってきました。


あれから四年。

そうだ、まだパスポートは切れていない。


ペルーへ、行こう。




つづく

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