第6話 怪物と死者たち
崖下から駆け上がって来た猛獣はライオンのような姿をしていた。
ただし体長は五メートルを超えるほどの大柄で、更に背中からはヤギの首が生えていて、尻尾は蛇になっていたが。
猛獣というよりは怪物である。
幾多の世界でその存在が確認されているこの怪物は、その姿形から合成獣、キメラと呼ばれていた。
稀に年経て知性を持った個体は賢者と称されることもあるが、基本的に性格は獰猛で凶悪。
肉食で目の前に現れた存在は全て敵か餌だと認識する。
つまりキメラはすでに臨戦態勢に入っていた。
「守れ!」
周囲を漂う自然霊に命じて盾、というよりは壁のような土塊を生み出したのと、怪物がその鋭い爪で殴りかかってきたのはほぼ同時であった。
土塊に深い爪痕が刻まれるものの、崩壊の危機というほどでもない。
渾身の一撃を防がれたキメラは用心のためか距離を取っていた。
はっきり言って防御が間に合ったのは奇跡に近い。
更に術式も何もあったものではなかったが、感情が乗っていた分強固にできていたのも運が良かった。
まあ、こんな怪物に襲われている時点でその幸運を覆して余りあるほど不幸なのではあるが。
「弱ったな」
こちらからの反撃がないことに感付いたキメラは再び攻勢に移っていた。
再び鋭爪を備えた前足で殴りかかったり、体当たりを敢行している。
その度に土壁は大きく削れ、揺れて、ポロポロと細かな土石が端からこぼれ落ちて散っていく。
しかしそれでも土壁が崩れてしまう気配はなかった。
そのことが癪に触ったのか、怪物は再び大きく距離を取ったかと思うと、背中のヤギ頭が大きく口を開いて極炎を吐きだした。
「熱っ……」
奥の手だったのだろう、壁越しでさえその熱さが感じられるほどである。
高熱に曝された土壁は一時的にはその強度を増したものの、徐々にその耐性を下げていった。
炎が止むと同時に衝撃が走る。
焼かれて脆くなった所に体当たりの一撃とは、怪物はそれなりの知性を身に着け始めているのかもしれない。
「それどころじゃない!」
逃避気味になっている思考を無理矢理引き戻して土壁を補強する。
辛うじて間に合ったが、そのせいで周囲の自然霊がかなり少なくなってしまった。
このままでは押し込まれてしまう。
プライドを傷つけられ怪物が、土壁をムキになって破壊しようとしている間に次の手を考えなくてはいけない。
そして、途中にあった無限通路とでもいうべき結界は、間違いなくこの怪物をこの区画に隔離するためのものだったのだろう。
それを解いてしまった以上、キメラを何とかする責務が生じてしまっている。
分岐点で見た何かに上手く誘いこまれてしまったように感じる。
「手をお貸ししましょうか?」
「我らであれば汝の力となれようぞ?」
そんな時だ、何処からともなく声が聞こえてきたのは。
「手を貸すも何も、元々あなたたちのやり残した仕事でしょう!」
見計らっていたかのような絶妙な機会で、しかも上から目線で投じられたその言葉に苛立ちを覚える。
「……確かにその通りです」
「しかし、我らが声に応えたのは汝ぞ」
やはり、彼らによって見事に誘いこまれてしまっていたようだ。
「だから手を取り合いましょう、と?随分とムシのいい話ではありませんか?」
「礼を失しているのは十二分に承知しています。ですが、奴は私たちの心残りそのもの!」
「頼む!死者の声を聞くことのできる者よ。我らの悔いに決着をつけさせてくれ!」
それは心の底からの声であり、望みだった。
加えて『魂の休息所』にいくことなくこのまま居続けることになれば、やがて擦り切れ散り散りになってしまうだろう。
それを見過ごせるほど非常になることはできない。
そしてもう一つ、怪物の猛攻は苛烈を極めていて、土壁の存在がいよいよもって危険な状態になっている、ということもあった。
「搦め手など使わずに、最初から素直にそう言ってくれれば良かったんですよ」
最後にチクリとそう言ってから、どこかの言葉でこの世界をも司る理へと働きかける。
そして死者たちは世界に満ちる魔力によって仮初めのからだを得たのだった。
「感謝いたします、死霊術師殿」
頭を下げた男性の首には何やら聖印のようなものが下げられていた。あの結界を施したのはこちらの男性だろう。
「騙すようなことをして悪かった」
そして弓矢を携えたもう一人の男が、先ほどまでとはかなり違った口調で謝罪の言葉を述べた。どうやらあれは、こちらを取り込むための演技であったらしい。
「構いません。その代わり、あの怪物を倒すためにしっかりと働いてもらいますよ」
そんな二人に対して、ニヤリと不敵に笑ってやる。
「勿論だ。このからだの全てを使ってあいつを倒してやる!」
「ダメですよ。あなたたちの悔いはあの怪物を倒せなかったことだけではありません。使うのは精々半分までにして下さい」
「……やはり死霊術師殿には隠し事ができませんね」
意気軒昂に言う弓矢の男に釘をさすと、聖印を下げた男性が諦めたようにそう言った。
そう、先ほどの会話から二人の抱える悔いがこの怪物を仕留めることだけではないことは分かっていた。
それを残したままでいこうとすれば、魂はどこかに歪さを持つことになる。
そしてそうした歪さは、次に廻る時に大きな害となって現れることが多いのである。
「私の手を煩わせたからには、きっちりと全てを解決してからいってもらいますからね」
「……もしかして俺たちはとんでもない人に助力を求めてしまったんじゃないか?」
「私もそう思います」
「『魂の休息所』にいった時のいい土産話ができたと思って諦めることですね」
顔を見合わせる二人に、笑顔でそう言い放つ。
物の本によれば、休息所というくらいなので穏やかな場所であるらしいのだが、その分娯楽に飢えている者たちも多いらしい。
記述の通りであれば、死してなおこんな波乱を乗り越えなくてはいけない二人は人気者になれること間違いなしだろう。
その時、彼らから少し離れた場所では、ついに土壁が怪物の猛攻に耐えきれなくなっていた。
「まあ、今回は三人もいることだし、死ぬ気にならなくても何とかなるか」
「そうですね。私たちは死んでいる身ですから気楽にいきましょう」
「おや?そうなると私が一番危険ということになりませんか!?」
崩壊していく壁がたてる濛々とした土埃の中を悠々と歩いてくる怪物を前に、三人は冗談を言い合う。
果たしてそれは本心からの余裕であったのか?
答えが出るのにそう時間はかからなかった。
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